一夜
 今は金曜の夜で、オレンジのライトが照らす店内には焼鳥のいい匂いが漂っている。なんとなくベタつく肌も、崩れているであろう化粧も気にせず大口を開けて笑いながら、久々に会う友人達と一緒にアルコールを身体に流している。
 ふわふわと、少し饒舌になる。私達は女子高生だったあの頃のように、大きな声でどうでもいい話や、愚痴や、将来への不安なんかを笑い話に変えながら止まることなく話していた。少女だったあの頃に戻ったような、そんな錯覚。部活動に委員会、興味のない行事に強制的に参加させられたって、友人達とだべっていれば笑っていられた、そんな頃に。
 高校の同級生だった○○さんと××くんがまだ付き合っているだとか、逆に別れたカップルの話。中学の同級生だった△△さんに子供ができて今シングルマザーだとか、結婚している同級生が周りにいることだとか、仲間の別れた彼氏の話だとか、私達の中で誰が真っ先に結婚するだろう、とか。女子高生の頃は話しようもなかったような、しても笑い話だったような、けれど今はそうじゃないリアルな会話の中、私達は現実を少しずつ理解してきているのだということを悟ったような気になっている。

「どうなのよ、今度の人は」

 友人が聞く。

「いい人だよ」

 私は答える。笑いきれていないことに気付きながら、はぐらかすように。彼女達はそれでも、それを笑い話に変えてくれるだろう。いらない気なんて使わないで、「あんた前が散々だったからね」と。
 目の前にぶら下げられた幸せを都合よく信じて、信じて、信じて。結局叶わなかった瞬間に、本当は現実を知っていて目を逸らしていただけだったと気付いて、泣く事すらできなかった。馬鹿な私があの恋で知ったのは、一人の夜が寂しいことと、夢を見せるのはタダだということだけだ。口で言うだけなら簡単で、好きだと言ったって、愛していると言ったって、どの程度のものなのかはわからない。〝結婚〟の二文字の意味はあんなにも重く感じるのに、言葉の重さは人それぞれで、現実はタイミングとか、環境とか、お金とか、いろんなものが絡み合っていて、好きなだけじゃ仕方がない。それに身をもって気付いた時、私は一つ大人になった気がした。
 いい人だよ、と言ってみたところで、どこかに苦さが残っていて、信じていいのか、悪いのか。心の底から大切だと思うのに、 自分の気持ちが本物なのかわからなくなる時があるのだ。 自分の口から出る言葉の軽さが嫌になるときがあるのだ。恐る恐る確かめるように言った愛しているの言葉は舌の上を滑っていくし、そんな時ばっかり私はお得意の演技さえ忘れてしまったかのように素直だ。そのことに罪悪感を抱きながら。
 勿論素直に言えるのが本当はいい。大切なら大切だと、好きなら好きだと、愛しているのなら愛していると、目を見て彼に伝えられるのが一番いい。それなのにいつも恐る恐る言ってしまうのは、意を決して言ってしまうのは、自信がないからで、自分の愛にも相手の愛にもどのくらいの重さを持たせていいのかわからないからで。そんな難儀な性格だと自分を特別視してみても、愛に悩む人が大勢いることに安堵を覚えたりする。そういう自分に汚さを感じて、けれどきっと、皆どこかで汚くて。

「はー楽しかった!」

 そう言って笑う彼女等の汚さを私は知っていて、私の汚さも彼女等は知っていて、だからこそこの場所に安心を得るのだろう。私達は、どこか相手を理解して、どこか相手を理解しないで、心地いい間柄で生きている。
 会計を済ませる。皆で目を合わせて「また飲もうぜ!」なんて軽口を言いながら各々家路に着く。夜道を照らす街灯を一つ、また一つ越えて、皆の背中が遠のいていく。

「一花」

 同じ方向に歩いていた彼女に呼ばれ、そちらを向いた。彼女は少し笑って「もう一軒いかない?」と私を誘う。話し足りないことがある。彼女も、私も。

「うん」

 さっきの煩さが嘘のように、静かに、囁くように声を出す。冷たい風に心地よさを感じながら歩く道。夜の空気が喉に染みて、雰囲気にのまれていくのがわかる。それでも止まることのない言葉達には、他の人に言えない本音がにじみ出て、けれど努めて冷静に、平静に、なんでもないように話すのは、私達が可愛くない女だからだろうか。
 真っ暗な街の中、店の奥からはやはりオレンジの灯りが漏れていた。無愛想な店長に迎え入れられながら無骨な居酒屋の中でカウンター席に座り、ゆっくりと飲むような酒を頼む。

「結婚ってどう思う?」

 今まで隠していた、恐らく彼女の本題に触れると、ああ、と思う。悩んでいるなら話してくれと言われたって言えないことがある。きっと彼女にとってこの話はそれだったのだろう。口が重く、言葉が喉にへばりついて、中々出てきてくれないものをするりと引っ張ってくれるのは、他愛もない話と自分の一歩だけだ。
 私は少し考えた。その時間が彼女には辛かったのだろう。「ごめんね、一花にこんなこと聞いて」。

「前の彼氏に〝結婚したい〟って言われれて、ダメだったの知ってるのに」
「いいよ。だからでしょ?」

 苦笑して、酒を含む。こういう時の酒は口を少し饒舌にするだけで、少しも頭を酔わせてくれない。それが逆にありがたい。彼女は少し安心したように、けれど申し訳なさそうに、酒の入った器を指先で触りながら目を伏せる。

「結婚したい感じなんだって」
「感じ?」
「ハッキリ言われたわけじゃなくて……でも、考えてはいるみたい」
「……いいことだと思うよ」

 そう言った私に彼女は意外そうに目を向けた。それに出てくるのはやはり苦笑だ。結婚したいと言われて、結局諸々合わなくて、駄目だった人間が言う言葉は、もっと否定的で、暗いものだろうか。きっとそうだろう。私だってそんな時期があった。彼女等相手に毒づくような、皮肉るような、あの人だけを責めるような、そんな愚痴を何度も零して、何度も何度も何度も汚い言葉を吐いて、そうして今の私がある。綺麗サッパリなんの疑いもなく幸せな物だと思えるような、そういう立場では勿論ない。けれど。

「結婚したいって思われるってことは、それくらい本気で好かれてるって、それはそうだと思わない?」
「うん……」
「嬉しかったでしょ?」

 「うん」と素直に肯定の言葉が返ってくることに、安堵と少しの羨ましさ。私は言われて、素直に嬉しいとは言えなかった女だ。

「私は言われたとき、半分嬉しくて半分嬉しくなかった」
「え」
「……結婚ってこんな感じなのかな、って思っちゃったんだよね。付き合ってる時に」

 ギリギリの状態の彼を支えていた自信はあった。それが正解だったか不正解だったかに関わらず。けれどふと立ち止まった時、私はもう彼のことが好きじゃなくて。

「この人と結婚したら、好きじゃなくても耐え忍んでやっていく生活を送るんだろうって思ったら、ダメだった」

 〝結婚は忍耐と我慢だ〟。そう言う人がいるけれど、けしてそれだけじゃないはずだ。一緒に居ることで以前は知らない一面を知って、それに苛立ったりすることはあるだろう。時に喧嘩もして、言い争って、大なり小なり傷を負って、幸せなだけではいられないだろう。それでも厳しい気持ちになった分、その倍優しい気持ちになれるよう、二人頑張って、互いが互いを想って生きていこう。そういう誓いなのだと、思いたくて、思わずにはいられない。

「だからさ、ずっと、お互いに、優しい気持ちでいる努力ができる相手を探してるんだよ」

 軽い調子で笑いながら言った言葉に、彼女は「そっか」と呟いた。

「……それが理想だよね」

 現実を知ったって人は夢を見る。私が見るのは穏やかで、優しいリビングだ。休日の朝ゆっくりと起きてきて、清々しい空気の中朝食を取り、まったりと過ごして昼食を食べ、少し昼寝をして、お茶をして、夜は二人楽しいことを話しながら酒を嗜む。そんな、なんてことない日常に焦がれている。喧嘩したっていい、ぶつかったっていい、また優しい気持ちになれるなら。
 彼女は前を向いていた。横顔から見える瞳は少しうるんでいて、けれど涙を流すわけではない。私はそれから努めて視線を逸らし、彼女が落ち着くのを待っていた。やがて彼女はスンと鼻を鳴らす。

「ありがとう、一花」

 彼女はそう言って笑った。
 店を出て、さっきと同じ冷たい空気の中「今日、楽しかったよ」と彼女が言う。私はそれに「彼氏さんと仲良くね」と笑いながら返す。
 次会った時私たちがどうなっているかはわからない。きっと何かに幸せを感じて、何かに不安を感じて、幸せを守るために、不安をかき消すために、悩みながらも笑って軽口にして、それでも消えない大きな何かを、囁くような静かな声で打ち明けるのだろう。それは誰に話してもいいような軽いものではなくて、辛く、苦しく、積もって溜まって一人ではどうしようもなくなるほどの重たいものだ。それを受け止めてくれる友が私達には居るということ。それだけが私の希望のように思えた。
 彼女の背中を見送って、私も踵を返す。一人帰る道はどこか寂しい香りがする。スン、と鼻をすする。自分の住むマンションが近づくたび、自分の家に電気が灯っていないことが悲しくなる夜がある。
 どんなに「まだ若い」と言われたって、私達は女子高生だった頃よりも確実に歳を重ねていて、あの頃飲めなかったお酒を飲めるようになったし、なくても平気だったアルコールを入れないとどうしようもない日だってある。耐えることばかり覚えていって、けれど知りたくなかったような経験や、苦い気持ちを知って、どうしようもない苛立ちやモヤモヤが内臓に溜まって、昔の仲間と馬鹿笑いしたい日があるのだ。そして、そんな夜は決まって一人の帰り道がありがたく、悲しい。
 ロビーの郵便受けには何も入っていなくて、夜遅く使う人の少ないエレベーターは一階で止まっていて、私の他に乗ってくる人もいない。白い光に包まれて上へ上へ上がって行くと、現実に引き戻されていくような心地がした。カバンの中から鍵を漁ってドアを開ける。

「ただいま」

 誰もいない家の中に、声をかける。静まり返った真っ暗闇。私は乱雑にパンプスを転がして、コートとジャケットを脱いで、ベッドに仰向けに倒れこむ。暗闇の中、目が部屋の中を捉える。一人暮らしのワンルーム。インテリア、雑貨、本。好きなものばかりに囲まれているはずなのに寂しいのはなぜだろう。
 酒のせいか、他の何かのせいか、頭が冴えきって眠れそうにない。そんな夜。無性に涙が出そうなのを、無理矢理腕で視界を覆って押し込もうとする。ブラウスに滲む温かいものに、その努力の無意味さを知る。

(どうして眠れないんだろう)

 こんな日は電話をしたくなる。ボーッと手の中にあるスマートフォンの画面を見ていた。真夜中、彼から連絡はない。当然だ。そして当然、私は彼の睡眠を邪魔することなんてしない。端末を充電器に繋いで、明日は休みだからアラームはいいやとベッドの上に放り投げた。今は一時十五分。寝なければと思えば思うほど目は冴える。それは瞼を閉じていてもだ。

「寂しい……」

 ポツリと一言呟くと、ジワリと涙が滲んだ。情けない。けれど、寂しいものは寂しいのだ。いい大人になったって、人は一人じゃ生きていけない。静かな部屋の中、ごちゃごちゃとどうしようもないことを考えた。それは結論の出るものだったり、出ないものだったり、どうにかできるものだったり、できないものだったり。そうしている間に、私はスーツも脱がないまま、化粧も落とさないまま、意識を手放していた。



 淡い光に目を開ける。窓の外が明るい。時計を見ると六時を回ったところだった。まだ夢見心地の頭が、歯磨きしないで寝ちゃったな、とか、スーツ着替えないで寝ちゃったな、とかどうでもいいけれどどうでもよくないことを考える。のそのそと起きて身につけているものを脱ぎ、洗濯機に放り込んで、お風呂へ向かう。シャワーは最初冷たくて、けれどすぐに温かくなって私の体を包み込む。一人でも、穏やかな朝だ。隣に誰かが居ないだけ。それだけの違いだ。人は一人で生きていけないなんて言ったって社会と関わりがあれば生きていけて、パートナーがいなければままならないなんて事はほとんどない。温かい家庭を築く未来予想はとても難しいのに、一人、働いて生きていく想像はあまりに容易だ。
 タオルで髪と身体を拭いて下着を身につける。そのまま部屋に出ていくだらしなさを咎める人はいない。何をしよう、と考える。服を着て、洗濯して、掃除をして、それから気持ちいい部屋でトーストでも食べようか。ぼんやりと、のそのそと動く休日はとても気持ちがいい。皆に平等にやってくる朝の光は心地よい切なさを滲ませている。一人に慣れた身体は、その切なさに慣れている。
 眠れない夜って言ったっていつの間にか眠っていて、知らないうちに朝が来ている。寂しくたって毎日毎日やる事があって、そうしているうちに夜になる。一人、布団に入っても、自分の体温で温められた毛布は冷たくない。毛布をかけ忘れたとしても、かけてくれる人がいなければ体が勝手に引き寄せる。そんなもんなんだ。
 だけど、それがすごく、切ない。
(2017/03/20 #twnovel 2016/09/09)