口紅
「どうなさいますか?」
「そうねえ……」

 目の前の綺麗な服を見ても気分が上がらない。今日の買い物はそういうものだった。いくら綺麗な服を見たとしても、それを見せる相手がどこの誰とも知らないような人間であればそりゃあおざなりにもなるし、さっさと帰ってしまいたい気持ちにもなるというものだ。事情を知っている馴染みの店員は「毎度大変ですね」と苦笑いをしながら、それでもおすすめの、私が好きそうで、私に似合いそうな服を何着か持ってきて並べてくれる。それが的外れなわけじゃない。いつもならうきうきしながら、どれを買おうかと悩んだだろう。けれど今はそうじゃない。

「……うーん」
「まだまだ続きそうなんですか?」
「そうねえ……」

 主語のないその問いの主語を、私は理解していた。「お見合い、まだまだ続きそうなんですか?」だ。そしてその問いへの回答は、忌々しいことに肯定なのだ。
 彼女とはもう五年ほどの付き合いになるだろうか。この店ができてもうそんなに経つのかと思いながら、随分親しく、友人と言っても遜色がないくらい近しくなった彼女を横目に見る。店員と客という微妙な距離感で、お互い少しくだけた会話をするようになった。彼女は年上で、口が堅くて、信用がおける。そう、親戚の姉のような距離感で居る。そんな彼女にしか話せないことも、あったりする。そしてそれが、今話題に上るものだった。

「嫌だ、とは言わないんですか?」
「お見合いを? 言えないわ。追究されたら困るもの」

 そう言うと、彼女は苦笑した。何か甘酸っぱいものを見るような顔をして、私が見終わった洋服を畳みながら言う。

「もういっそ、伝えてしまえばいいのに」

 それをするには、まだ今の関係が惜しいのだ。
 言葉を返さない私の頭を優しく撫でて、彼女は店の中に並んでいる服をまた見て回る。根気強く、私に合う服を探してくれているのがわかり、私も拗ねてばかりはいられないと思い、顔を上げる。

「これなんてどうですか? これからの秋の季節にぴったりですよ」

 綺麗な紅葉色のドレス。膝より少し下まであるスカートは、歩くたび、振り返るたび、上品に揺れそうだ。彼女は本当に私の好みを理解してくれている。

「着てみてもいいかしら」
「ええ、是非」



 「とてもお似合いですよ」と彼は言った。シャワーを浴びて、この間彼女に選んでもらった紅葉色のドレスを身にまとい姿を見せた私に、彼がそう言ってくれるであろうことは、試着室で鏡を見たあの時から想像がついていた。緩む頬を隠しながら、「でしょう?」と笑ってみせる。
 どうぞ、と私を椅子に座るよう促しながら、彼はメイクの道具をいじりだす。幼い頃から私の車の運転手をしていた彼が、実はメイクの専門学校を出ていると知ったのは高校生になった頃だった。周りの女の子たちがこのリップが可愛いだの、このチークが綺麗だの、難しいことを話しているのが理解できなかった私に、彼はメイクの楽しさを教えてくれた。自分でするよりも圧倒的に綺麗な仕上がりに、いつしか私はメイクを彼に頼るようになっていた。普段のメイクくらいは自分でするけれど、少しかしこまった場に行くような時は彼にお願いしているし、彼もそれを快く引き受けてくれる。「まさか本当にメイクで仕事ができるなんて」と嬉しそうに私の顔を触りながらする笑顔が私は好きだ。

「ドレスが綺麗な色だから、少し抑え目にいきましょうか」
「ふふ、任せるわ」

 「失礼します」と言いながら私の頬に触れる。車を運転する無骨な指が繊細に動く。下地から全て、彼がやってくれる。その工程を私は、鏡の中の自分を見るふりをして見ている。初めは自分の顔を誰かに触られることに居心地の悪さすら感じていたけれど、今は彼の指ならば寝てしまえそうなほどだ。勿論、寝たりしないけれど。

「今度のお相手はどのような方なんですか?」
「うーん、よく知らないわ。どこかの社長さんのご子息だそうよ」
「写真くらいはご覧になられたのでしょう?」
「見たけど、覚えてないわ。ありふれた顔だった」

 素直すぎる私の物言いに彼がくすくす笑う。

「お嬢様は昔から変わりませんね」
「だって、本当に覚えていないのよ」

 お見合いをしようというのに大変失礼なことだが、興味がないのだ。本当に。社長のご子息でも、医者でも、弁護士でも、税理士でも、医者でも、どんなに将来を約束されていようと関係ない。私が今気になるのは、私の家の車の運転手で、今私の顔を彩っているこの人に他ならないのだ。

「ご自分の大切な将来に関係することなのに、そんな感じでいいんですか?」
「自分の大切な将来に関係することだから、顔も覚えられないような人は嫌なの」
「それでは、今日もお断りに?」
「ええ」
「話してみたら案外気が合って、良い人かもしれない、とは思わないんですか?」
「思うわよ」

 どんなに写真の顔が覚えられなくても、実際に会って話せばそれなりに記憶に残る。街中ですれ違っても気づかないかもしれないが、小さな喫茶店で会えば気付くくらいには。

「でもね、どんなに良い人でもだめなのよ」
「だめなんですか」
「そうなの。だってときめかないもの」

 そう困って言うと、彼はキョトンとして鏡越しに私の目を見つめた。そしてまた、くすくすと笑う。

「お嬢様は、時々少女のようなことをおっしゃいますね」
「失礼ね。私だってまだ少女らしいところはあるのよ」
「褒め言葉ですよ」
「本当かしら」

 私が口をとがらせると、また笑う。よく笑う人。この笑顔が心地よくて、好きなのだ。

「本当です。歳を重ねて美しくなられても、素直で、正直で、可愛らしい。お嬢様の美徳です」

 話しながらアイシャドウの色を選んでいた彼が、「目を閉じていただけますか?」と言った。私はそれにしたがって目を閉じる。瞼に指が触れる。アイラインに、マスカラ。頬にブラシの柔らかい毛が当たる。いつもと同じ手順でも、いつも少しずつ違うメイクをしてくれる。「うーん」と言いながら彼の作業が止まった。口紅を悩んでいるらしい。そうよね。ドレスの色があんまりにも綺麗だから。

「いい色ありそう?」
「そうですね……これでいきましょうか」

 そう言って彼が選んだのは、ドレスよりも少しだけ深い赤。

「綺麗な色ね」

 唇をなぞる口紅を鏡越しにじっと見つめている。私の頬を優しく支えて唇に色を挿す、彼の真剣な眼差しと、繊細な指を愛おしく思う。メイクというのは、他の部分を整えてどれだけ綺麗だと思っても、この口紅の色一つで全然違うものになるのだと、毎回思い知らされる。そしてその瞬間に、彼は真っ直ぐ向き合っている。

「できました」

 唇を念入りに確認して、彼が言う。

「ありがとう。……どう? 綺麗?」
「とてもお美しいですよ」

 彼によって、私は美しくなる。そして、彼によって、私は愛らしくなる。満足そうな彼の顔を見て、私は今日も、自分はいい女なのだと錯覚する。

「行かなくちゃね。億劫だわ」
「だめですよ、そんなことを言っちゃ。せっかく綺麗にしたんですから」
「まあ、そうね」

 立ち上がり、スカートの皺を伸ばして姿見を確認する。彼にメイクをしてもらった後の私は、いつもの私の倍は綺麗に見える。

「お嬢様、これを」

 彼が持ってきたのは白色のボレロだった。露わになっていた私の肩が隠れる。少し長い袖を見て、「もう少し短いのなかったかしら?」と彼に言うと、彼は少し困ったように笑った。

「夜は冷えるかもしれませんので」

 そうかしら? まあ、素敵だからいいけれど。

「じゃあ、行きましょう」
「はい」

 彼が似合うと行った服で、彼が施した美しさで、彼の運転する車で、私は他の男の人に会いに行く。そして、どんなに良い人でもだめで、お断りをして帰ってくる。そんなことをもう数回繰り返している。

『もういっそ、伝えてしまえばいいのに』

 あの人の言葉が不意に思い出された。けれど本当に、愛おしいのだ。今の距離も、今の関係も、全てが。まだ、もどかしくいたいのだ。私はそんなずるさで今を守っている。

「ここですね」

 キラキラと光るホテルの前に車が止まる。彼が開けてくれた扉から、少し息を整えて降りる。

「行ってくるわね」
「はい。行ってらっしゃいませ」

 今日も結局、お断りをするのはわかっている。
 だって、どうしたって、彼は忘れようがないのだ。街中ですれ違っても振り返ってしまうくらいに。
(2017/09/29 #twnovel 2017/09/06)