図書室と呼吸
 桜の花がひらひらと舞う。それを太陽の柔らかい光が照らすと、少し花びらが輝く気がした。部屋の窓から、背の高い桜の木を見上げる。それだけで日の光まで視界に入ってしまって、私はふと目を閉じた。
 私の目には強すぎる光だ。焼かれているように思えてしまう。仕方がなく室内に視線を向けると、一時間前からずっと動かない“彼”がそこで寝ていた。
 ふわりと柔らかそうな短い茶髪が、風に揺れる。
 閉じられたままの瞳が人よりも少し色素が薄いことを、私はよく知っていた。

 細めた目でその人物を見ると、少しの寂しさとともにわけのわからないもやもやとした感情が浮かんでくる。

「何考えてんの?」

 ニヤリと笑うその顔を見て、ふっと眉間にしわが寄るのを感じた。
 嫌味で、憎たらしくて、会うたびに口論ばかりしていた気がする。黙っていれば、とても綺麗な人なのに。

「別に何も考えてません」
「眉間、また凄いことになってんぞ」
「誰のせいですか」
「俺のせい?」

 それ以外に何があるんですか、と言えば彼は面白そうに笑う。

 嫌な人。それが、私から先輩に対する印象だった。

 これからも変わることはないだろうそれは、今この瞬間にも離れていこうとしている。
 人と人との繋がりなんて所詮はこんなものだ。何か一つのきっかけで、何かに定められたこんな些細なことで、失われてしまうものだと、そう、改めて思う。

「卒業したんですから、わざわざ残らなくてもいいでしょう」
「何? 出て行けって?」
「私、昼ご飯もまだなんです。誰かさんのせいで」
「俺か」
「だから、それ以外ないでしょう」

 中学二年生の私。三年生だった睦月先輩は、もうこの学校の生徒ではなくなってしまった。
 今日この学校で行われたのは、“卒業式”だ。

 嫌な人。でも頭はよかった。高校の受験だって悩む様子すら見せなかった。絶対入れると教師ですら言い切ってしまえるラインの、でもわりとレベルの高い学校に当然のように受かっている。
 中学に未練なんて残さず去っていくだけの人。それがここにいるなんて、おかしい。

 睦月先輩は部活に入っていなかった。私も入っていなかった。そんな私達が知り合ったのは中学一年の夏。
 この学校は夏休みも一日置きに図書室が機能していて、鍵の開け閉めや本の貸し出しなど、ほとんどのことは図書委員の生徒が日替わりで担当する。というのは名目上のことで、委員会があるとはいえ夏休みは旅行に行く人も多く、暇な人のところにそういう役割が回ってくるのはむしろ当然の流れだった。

 “そういう役割”を請け負ったのが私。

 “本の虫”と親にまで言われてしまうような私の生活環境がそれを苦痛には思わせなかった。もっとも、一日置きという結構な頻度で図書室を開けても人なんてほとんど来なかったが。
 同級生は、どうせ少し遠出して、プリクラでも取って、楽しくショッピングでもしてる。
 開けても意味はないのでは、と思ったけれど、それでも私はよかったのだろう。私はその空間にいられることが好きだった。誰の干渉も受けず、時間も忘れて本を読んでいられる空間が。

「何してんの?」

 そこに現れたのが睦月先輩だ。
 図書室は一階にある。中庭に面した窓から顔を覗かせた彼は、夏の強い日差しにすら動じず、汗の一つもかいていないように見えて、私の目には酷く美しく映った。

「図書委員なんです」
「あ、そなの。夏休みなのにご苦労さん」
「いえ……」

 本は好きなので、そう言った私を見て、彼が柔らかく微笑んだ。そんな笑み、一年と半年顔をつき合わせてその一回きりだったけれど、本当に、本当に綺麗で。

「図書室に何か御用ですか?」
「んーん。別に。入ってもいい?」
「どうぞ」

 そう言うと、窓からではなくちゃんと下足室を通って彼は入ってきた。てっきり窓から入るのかと思っていたから、そのときの私はかなり驚いていたかもしれない。もう、よく覚えてはいないけど。
 何を話すわけでもなく、ただそこにいるだけ。本を読んだり寝ていたり、それはまちまちだったけれど、空間の静寂が侵されることはなく、むしろただ呼吸音が二人分に増えただけのことがとても心地よく感じられた。
 初対面からの不思議な人だというイメージは拭えない。
 それからというもの、彼は私が図書室を開けるたびに訪れた。ときには鍵を開ける前にいたり、そんなことすらあるくらい。

 彼が私に名前を聞いたのは三回目に来た日だ。私が高咲美桜と、彼が睦月春と、名乗ったのは。
 お互いの名前を知って、少し話すようになって、彼のイメージがどんどん変わっていく。今では変な上に嫌味な人、なんていう不名誉なそれに成り代わってしまっている。

 一年半という時間が、長くも短くも感じられた。そんな日々。
 夏休みが終わっても先輩が図書室にきたことも、真冬の図書室で下校時まで眠っていた先輩を待っていたら「馬鹿かよ」と少し怒られて、それでも家まで送ってくれたことも。

 全て、もう触れられない思い出になってしまう。

 図書室で始まって図書室で終わる。
 だからだろうか、この人が、今、図書室にいるのは。

「お前さ、最後まで可愛くないな」
「大きなお世話です」
「結局二年の夏休みも図書室いたし」
「いいじゃないですか。本好きなんですから」
「何? 来年は委員長でもやんの?」
「ここまできたら、それもいいかもしれません」
「なんだよ、それ」

 苦笑した先輩は、ちょいちょい、と手を動かして私を呼ぶ。
 先輩の顔は真剣で、いつになく寂しそう、だ。私の目がそう見たいがための幻想かもしれないけれど。

 少しは寂しいと思ってくれているのだろうか。
 可愛くない後輩だったけど、会うたびに嫌そうな顔しかしていなかったけど、話すよりも本を読んでいる時間の方が長かったけど、それでも。

 先輩が座る椅子。それと私が今座った椅子の間にはもう一人分のスペースがある。
 それが今の私と彼の距離のように思えて、少し悲しかった。

「美桜とはさ、ここで会ったんだよ」
「覚えてますよ」

 何かを憂うような表情。そんな顔はしてほしくないと思いながら、絵になると思う自分もいた。
 私は彼の隣に並べるような美人でもないし、可愛い性格もしていないけど。いつかそういう人を先輩自身が見つけて、その人は隣を歩いていくんだろう。

「俺卒業したな」
「そうですね」
「情けないけどさ、ちょっと泣きそうになった」
「らしくないです。……でも、仕方ないじゃないですか」

 そうだ。仕方がない。だって高校生になるのだ。小学生から中学生へ、地元の公立学校をエスカレーター式に上がっていた頃とは違う。別々になる。友達も、もしかしたら好きな人も。

「違うんだよ」
「……」
「俺はさ、別に同級生の奴等と離れるとか、そんなのが悲しかったわけじゃなくて」

 返事はしない。彼の放つ一字一句を聞き漏らさないように目を閉じて、その声に耳を澄ます。
 どうせこの人は、返事なんて求めていないのだろう。ただ言いたいことを、言いたいだけ言って。そういう会話は今までにも何度かしたことがあった。大抵は答え辛いもので、それでも初めは何か返事をしようとして、「聞いてくれるだけでいいんだよ」とか、そんなことを言われたりもしたなあ、と今になって思い出す。
 合間合間に相槌を入れる。それだけでいい会話。もうそれも、できなくなるのだろうか。

「図書室とかさ、そんな頻繁にきてたわけじゃない。二年の夏休みに、図書室なら涼しいかと思ってきたらお前がいたんだよ」
「そんな理由だったんですか」
「うるせーよ。……でも、心地よかった。静かなのに、居心地よかったんだよ」
「そうですか」
「もう、それがなくなると思った」

 先輩、そんなことを寂しいと思ってたんですか。
 あなたはさっさと高校に上がって、さっさと進んでいけばいいんです。振り返らないでいいんです。だって、それを寂しがるのは私の役目でしょう。何を勝手に、勝手なこと言ってるんですか。

 喉の奥から出てきそうになった様々な言葉を飲み込んだ。私はどうしようもない馬鹿だ。素直になれなくて、連絡先すら聞けないまま。彼は私の家を知っているのに、私は、知らないなんてそんな、

「俺さ、」
「……先輩は」

 挟まなくて良いはずの言葉を、無理矢理のようにねじ込んだ。そんなことは今までなかったから、彼は珍しく驚いた顔をする。最後に、少しだけ清々しい気分になる。
 少しの、優越感。
 私でもこの人の感情を動かすことができるのだという、証明を残してくれた気がした。

「ずるいですよ先輩は」
「何」
「先輩は私の家知ってるけど、私は先輩の家を知りません」
「それが何」
「初めは綺麗だなって思ってたのに、知れば知るほど嫌な人で」
「喧嘩売ってんのかお前は……」
「ここでさよならだったら、先輩みたいな人、一生記憶に残るじゃないですか」
「……」
「またきていいです」

 さっきよりも見開かれた目。いつでも真っ直ぐに見返して、喧嘩にも似た口論をして、時々笑った。
 もう慣れ親しんだ色。一年半も見続けてきた色が、今目の前にあること。そしてなくなること。全てが現実だと告げる春の夕方の、少し寒い気温が恨めしかった。

「寂しいならくればいいです。来年も、私はここにいます」
「そうかよ」
「なんなら再来年は、先輩が通う高校に入ってまた図書委員になってやります」
「……できんの?」
「ちょっとレベル高いですけど、人間やればできるんです」

 会いたいなんて、言いはしない。それじゃあ、まるで私が待っているみたいだ。
 だから、私から会いにいったりしないから、会いたいなら自分からこいと、暗に告げる。

「私だけ知らないのは不公平ですけど、先輩の家は聞きません」
「おう」
「私、図書委員長やりますから」
「おう」
「先輩はアレです。暇なときに菓子折りでも持って“久しぶり”って馬鹿な顔して出てくればいいんです」
「……おう」

 好きです。

 今は素直になれないけど。心の中でずっと言っていた言葉。
 彼の特別になんてなれやしないだろうけど、私はそれでもいいのだ。先輩が少しでも心地良いと思ってくれる空間が、私のいるその場所だと、それだけで笑ってしまいたくなるくらい、嬉しい。

「取り合えず今はお昼ご飯奢ってください」
「何でだよ」
「私の来年と再来年の道を、先輩の為に今日選んじゃいましたから」
「何だよそれ」
「あれ、もしかしたら高校の三年間全部ですかね。うわあ、やだな。こんな人の為に決めちゃって」
「おい……」
「また、馬鹿みたいな話ができたらいいです」

 そしていつか、彼に好きだと言えればいい。
 それまでに中学も、高校も、大学も、卒業してしまうかもしれないけど。

 今ここに流れるのと同じ空気が、そのときもあればいいと、思う。
(2011/03/27)