私の為に死んでください
「“私の為に死んでください”」





 昨日の劇は盛況だった。

 演劇部の部室内はゴチャゴチャと物で溢れている。
 主役を務めていた准は、乱雑に置かれた機材の中に埋もれるソファーに横たわり、静かな寝息を立てていた。入り口から入ってきただけなら、ゴミ山の中で死んでいるようにも見える。……――死体、死体だ。と思った。

「ピン!!」
「う゛……おはようございます、部長」
「おはようございます、じゃないのよ!! ミーティング!! 昨日の劇の反省会しましょうって言ってたでしょ、忘れたの!?」
「覚えてます、でも……」

 どうせ部長の妄想夢想で終わるじゃないですか。どうせ。そう正直に言うと、“部長”と呼ばれた少女は准の腹の上で面白そうな顔をした。「相変わらず言葉を飾ることをしないね、君は!」とカラカラ笑う。というか、ゲラゲラ笑う。
 大和撫子風の清楚な顔立ちと、小柄でも大柄でもない平均的な身長。特別美人なわけではないが、人並み外れた強い空気をを持っている演劇部の部長、御堂鈴蘭。昨日の劇ではヒロインを演じていた、実力主義な人物である。台本は勿論だが、衣装や道具類も既製品は出来る限り使わない。“学生の劇なんだから学生らしくていいのよ”が口癖だ。大人しそうな外見とは裏腹に、活発的でサバサバした感じの生徒。どこにでも居ると言えばどこにでも居るし、その逆も言える。

「それと、俺はピンじゃなくてジュンです」
「いいのよ、君はピンで。ただでさえ無表情なんだからちょっとくらい面白い要素があっていいの! 美形無表情とかありきたりでしょ? 演劇部員とあろうものがそんなじゃ面白みにかけるし」

 別に演劇部員全てに面白みを求められているわけではない。准はそう反論しようとして、やめた。そんなことを言ったところで彼女が自分の意見を聞き入れるとは思わなかったがために。鈴蘭本人も、演劇部員全てにそんなものを求めているわけではなかった。人には向き不向きというものがある。准に面白い要素なんてものが似合うとは思っていないが、端整すぎる顔に無愛想も相まって近づき辛い印象があるのは事実だ。入学当初から一匹狼を決め込んだ後輩を、そのまま見過ごすわけにはいかない。それは建前だが、本心でもある。
 一匹狼からピン芸人に飛び、そのままピンというあだ名に転じた。そう呼び始めてからは初めの冷たい印象なんて感じさせないほど、かの存在を可愛いと思っている自分を、鈴蘭自身も面白がっている。

「いくわよ、ピン。皆待ってるんだから」
「……あれだけテンション上がった状態で、反省も何もないでしょう」
「君は面倒くさいだけでしょうが」
「まあ、そうですけど。……でも、部長は完璧でしたよ」
「そう? ありがとう。准もこっちが昇天するほどかっこよかったよ」
「どうも」

 昨日の劇は、悲恋だった。

 吸血鬼の男が人間の女に恋をした。人間に化けてまで女と一緒になりたかった彼は、徐々に彼女との距離を縮めていくが、ある日、街の人間に吸血鬼であることを知られてしまい、その噂が広まって女にも恐れられるようになる。愛する者に恐怖という感情を向けられることに耐えられなかった彼は女の血を吸い、殺してしまう。愛しい者を殺した罪を償うように、吸血鬼は毒を飲み自害……――
 というのが物語の大まかな流れ。よくある悲劇だ。だけれど、脚本と演じ手によってはそれも素晴らしい宝石になる。鈴蘭が書くのは決まってありきたりで、王道と言ってしまえばそれまで、というような内容の脚本だ。そして決まって部員達に言う。
「君達は私と共に、この話をその瞬間、世界で一番輝く劇にしなさい」
 たったそれだけ。されど現代高校生が言霊というものを信じてしまうくらいには強い力がある言葉。

「ここで褒めあうよりも反省会で。流石の君も、待たせるのは悪いと思うでしょ?」
「……部長命令ってやつですか」
「それで君が動くのなら」

 脚本を上げたときのような活き活きとした覇気はない。今あるのは劇を終えた後の気の抜けた表情で、彼女も彼も、気力はとうに抜け落ちている。どこか寂し気で、ふわふわとして。一つの幕が終わっただけではない。文化祭の劇というのは、一つの劇の終わりを示す。文化祭の劇は文化祭だけのもの。それだけの為に夏休み前からずっとこれだけを練習していく。三年生への手向けの花。それを境に、卒業と受験や就職を向かえた最高学年者は舞台から降りていくのだ。
 だからこそ、彼にとって特別な、彼女にとって特別な。

「わかりましたよ」
「最初から素直に動きなさいよ」
「面倒なんです、本当に」

 人付き合いとかどうでもいい。そんな風に思っていた准が、同じ中学出身だということ以外何の接点もなかった鈴蘭に誘われ、半ば引きずられるようにして演劇部に入ったのも、もう色あせかけた記憶のように思える。そして、その彼女に対して恋慕などというものを抱いたのも同じように。





 ミーティングの後、打ち上げにいくと言い出したのは三年のムードメーカーだった。今週末の休みには、どうせ贔屓の店の一部屋を貸しきって正式な打ち上げを行うというのに、祭り好きな部員達はその流れに乗っていく。
 乗らないのはいつも、准と鈴蘭の二人だけだ。

「やっぱりここに居た」
「他に居たい場所ないですから」
「また行かなかったの」
「それは部長もでしょう」
「ははは、そうね」
「最後なのに」
「いいの」

 いいのよ。そう笑う彼女を見て、准は三年の先輩に言われた言葉を思い出した。「お前が来ないから御堂もいつまでもきてくんねーんだって」。意味はよくわからない。別に責めているわけではなかった彼の言葉が、理解できずにモヤモヤとしたまま准の頭の中を埋めていた。
 三年は今週末の打ち上げで実質引退する。自分達の進路に向かっていかなくてはならないからだ。だから、この時期の宴会騒ぎはたとえ余計であったとしても部員の出席率が高い。その中で絶対にいかないのが、この二人である。お互いに何を理由にしているのかは知らない。ただ、准が部室で寝ていたらそこに鈴蘭がくる。二人で何をするわけでもなく、思い思いの行動の末、下校時刻になれば重い腰を持ち上げる。

「ピン、今日は読書な気分?」
「違います。机で寝る気分です」
「あ、やっぱり寝るんだ。じゃあ今日は私がソファーもらおう」
「……珍しいですね。部長が寝るの」
「なんか、疲れちゃって」

 流石に、三年間所属してきた部活動からの引退というのは何か感慨深いものがあるのだろうか。彼女は、自分とは真逆で人一倍部活動に力を注いでいたから。
 一年、二年と、准が演劇部員として生活してきたのは鈴蘭の強引な勧誘あってのものだった。強い印象が根強い。凛々しく部活のために動き回る彼女の背中は同年代の男子よりも、もしかしたらもっと年上の人間よりも頼りがいのあるものに見えた。この人になら任せられる、この人についていけば大丈夫、そんなことを思ってしまうほどに。強く凛々しくそこに立ち、時に女らしく部員の相談にのり、時に男らしく仲間を戒めた。決して甘い人ではなく厳しすぎるわけでもない。丁度いい温度で、バラバラとまとまりのないように見えるこの部活を支えてきたのは紛れもない彼女だ。

 スウスウと、ミーティングの前に准が寝ていたのと同じソファで鈴蘭が眠る。白すぎない肌は健康的で、九月の暑さによって少しの汗が浮かんでいた。生きた人間が眠っている。死体なんて誰も思わないような、穏やかな眠り。校長室の椅子を買い換えるときに譲り受けてきた古い皮のソファは決して寝心地のいいものではない。だが彼女は落ちることもなくすやすやと、ひたすらにその空間を保っていた。
 空が夕暮れの色を強くする。窓から入ってくる明かり以外に光源のない室内に、黒い影が浮かんでいく。涼しい風に揺られた白いレースのカーテンが膨らんではしぼむ。

 机で寝る気分とは言ったものの、なぜかいつものように眠りにつけない准は、夕暮れを見てポツリと声を漏らした。

「……最後」

 そう、最後だ。そんなことはわかりきっている。劇を練習し始めたときから、去年の三年が引退したときから、あるいは、彼女と出会ったときからすでに知っていたのかもしれない。彼女に恋したときから、後二年、後一年、後半年、と自分で数えていたかもしれない。そして、そのカウントダウンももうすぐ終わる。後、が今日終わりになる。今日終わりが今終わりになる。今終わりが、今終わったに変化する。わかりきっている。時間を止めたいとは思わない。止まればいいとも思わない。そんなありきたりな考えは望んではいない。
 こうやって同じ空間でいることも、最後になってしまうのだろうか。そんな感傷的な思考が噴水から水が噴出すように溢れていた。

 夕暮れのせいだ。

 夕暮れに宿る不思議な魔力のせいだ。そうやって、准は頭の中に渦巻く言葉たちを切り離そうとして……――結局できなくて、ため息をつく。
 本当は、准本人も気づいていた。眠れないのも、感傷的になるもの、全ては目の前で堂々と眠っているこの人物に対する恋慕が原因であることに。

 会える機会が減ってしまうことは明白だった。元々こまめに連絡を取り合うようなことのない二人だったし、いわゆる“恋仲”というやつでもない。ただの先輩と後輩で、その事実は変えようがない。彼にはそんなことはとうの昔にわかっていて、それでも動かなかった自分を責めることはしなかった。動かなくていい、動かなくていいと散々自分を押し込んできたのは彼自身なのだ。そこで下手に行動してしまったら、この空間が終わるのが早くなっただけかもしれない。
 結局は彼も臆病な高校生の一人なのだ。一匹狼でも無愛想でも、一人の女性に恋をする、ただの男の子。
 彼女の強引さに引き込まれ、いつの間にか恋をして、別れに寂しさを覚える。それだけで十分だ。自分はそれを伝えなくていい。そう思うのに、伝えてしまえばとか、そんなことまで思ってしまう。机に体を向ける准は、背中にある彼女の様子を見ることすら躊躇している。
 これ以上見てしまっていいのか。見てしまえば、今以上に離れがたくなるだけではないのか。他の誰も知らない、准と鈴蘭だけの空間が、まるで彼を追い立てるようだった。

「……、」

 微かな風の音にすらかき消されるような小さな声。起きたのではないと、そうわかっていても。離れがたくなるから見ないでおこうと思っても、気になってしまう。この二人だけの世界で、彼女を独り占めできる世界で、彼女の動きの一つ一つを見たくなってしまう。
 このまま彼女が卒業して、准との関係は自然消滅するのだろうか。准はそれでもいいとは思えなかった。

 准が部室で寝ていたらそこに鈴蘭がくる。二人で何をするわけでもなく、思い思いの行動の末、下校時刻になれば重い腰を持ち上げる。

 それが准の日常。
 他の誰でもいけない。鈴蘭だからこその、鈴蘭でなければ意味のない、日常。
 彼女が笑って「やっぱりここにいた」と言う。それから始まるそれ。夕方の、ほぼ一定の時間内でしか存在できない、だからこそ尊く、だからこそ愛しい空間。

「……もう、部長じゃないと駄目なんだ」

 他の女なんてどうでもいいから。
 彼はどこにでも居そうでここにしか居ない鈴蘭という少女に恋をした。ただの後輩だとわかっていても、望み薄だと思っていても。
 いつか……――いつか彼女に愛された人間と、結ばれるのだろうと理解できていても。

 ソファの上で寝息を立てる彼女を見た。穢れのない空気を感じるのは准が鈴蘭を好いているからなのか、鈴蘭本人が綺麗だからなのか。それは第三者の目を通さなければきっとわからない。
 放課後、ミーティングの前に鈴蘭がそうしたように、けれど彼女よりもずっと慎重に、准は呼吸と共に動いている腹の上にまたがる。自分に比べて細く小さなその人をつぶしてしまわないように。
 そうして細い首に手をかけた。柔らかく包み込むように、力を入れてしまえばポキリと折れてしまいそうなそれに、注意深く触れる。

 スズランの花と同様に、清楚で控えめな容姿。彼女には派手なのとは違う、清々しい愛らしさがあった。だけれど毒を持っている。同じ名を持った花のように。

 わけもなく涙が出た。
 ポタポタと落ちていく水玉を見て、驚いた衝撃で溜まっていたそれがまた落ちた。

「泣いてるの」

 透き通った声だ。演劇の最中に、誰よりも遠くに届く声を出す人だと、ずっと思っていた。
 准の影の下にいる彼女が、彼の瞳をまっすぐに見つめている。准は、なぜか流れるそれを塞き止める術がわからなくて彼女の肩口に顔を埋めた。僅かに、花に似た爽やかな香りがする。そう思ったら余計に止まらなくなって、ついには声まで震えだして。

 ああ、情けないな。

 准は思った。演劇の中なら、どんなクサイ台詞も当然のように出てくるのに。感情を伝える方法を知っているのに。現実の己の不器用さを初めて知った。そんな彼に、彼女はただされるがままになって。抱きしめられるがままになって、何もしない。
 それが彼の心を余計に急かす。
 怒涛のように巡る思考の一つ一つを拾い上げるのはとても困難で、その思考を必死にまとめようとして、だけれどいつもと違う状況に戸惑っている彼にはそれはやはり容易ではなくて。
 かなりの時間を要したように思う。それでも少女は何も言わぬまま、なにもしないまま、彼を待ち続けた。初めは急かすだけだったそれが、逆に落ち着かせる要因になっていく。この人は待ってくれる。待っていてくれているのだと彼は確信した。
 落ち着いた思考で、だけれど熱くなった心で、何かを考え紡ぎ出す。
 誰かに不確かで曖昧な“心”というものを伝えるのが難しいことは、演技を通してよく知っていた。

「俺が吸血鬼なら、今すぐ部長の血を吸って殺して、その毒で死んでやれるのに」

 今まで微動だにせず、ただ時の流れに任せていた鈴蘭が目を見張った。

 元々演技の腕があると思ったから彼を勧誘したわけではない。彼の持つ声、姿、雰囲気。目立って、だけど出張りすぎない、とても美しいものだと感じた。自分の感性を信じて、舞台に立たなければ勿体無いと思わせた彼に声をかけた。
 初めて声をかけたとき。
 真っ直ぐと自分を見返してくるその瞳にのまれそうになった。同じ日本人で、同じ高校生で、どうしてこうも惹かれたのかはわからない。だけど、真剣に、自分の言葉に耳を傾けてくれる速水准を見つけたとき、心臓が大きく脈動したのを鈴蘭は覚えている。

――知ってますか。スズランには毒があるんです。心臓麻痺とか起こすらしくて、最悪死に至る。可愛い花なのに。

 いつだったか、准が言った言葉。
 本人を前にして言うか、と少し反論しようとした。だけど植物図鑑を見ながら鈴蘭に言う彼の目はとても優しくて、何も言わずに終わったのだ、と彼女は思い出す。

「――私の血には、毒なんてないと思うよ」
「知ってます。俺だって吸血鬼じゃない」
「死にたいの?」
「はい、部長と一緒に」

 何がどうしてそうなったのだろうか、と二人は思っていた。
 准自身もわからない、鈴蘭にはもっとわからない。ただ、この純粋な少年は、今度はどんなことを思ったからこんな突拍子もないことを言うのだろうか、と思考をこらしてみるだけだ。考えたところでわからない、それを。

「准」
「……はい」
「准」
「何ですか」

 やっと自分の目を真っ向から見た彼を、彼女は嬉しそうに、愛しむように見つめる。

「私が演じたあの女性はね、本当はとても計算高い人なの」
「……」
「きっと、噂を流したのも彼女。殺されるように仕向けたのも彼女」

 私の話が、演じ手によって大きく意味が変わるのは知ってるでしょ? と彼女は微笑んで見せた。准にはその意味がわからない。何故、今劇の話なのだろう。今の流れならば、彼女が自分の思いに気付かないはずがない。はぐらかされたのだろうか。そう思い、僅かに眉を寄せた。
 だけれど少女は、彼の髪を優しく撫でながら口を開く。

「彼女は吸血鬼を愛してたのよ。今は許されない思いだとしても」
「ぶちょ、」
「貴方と私が人間でよかった」

 ぎゅっと、今度は鈴蘭が引き寄せた。細い腕で、准の体を抱きしめる。
 准は目を見開いて、彼女の黒髪を見つめるだけだ。

「好きだよ。君が」

 それが最後。

 准はまた驚いて、それから嬉しそうに笑う。鈴蘭はそれを感じて、同じように微笑んだ。
 二人は人間で、吸血鬼でもなければ花でもない。同じ種に生まれてきたその喜びを、各々相違しているかもしれない、一致しているかもしれない心のままに噛み締める。
 もう離れるだとか、離れないだとか、そんなことは考えない。理性の中にあった思考の全ては、奥の奥に身を潜めてしまっている。

 声のない空間に、風の音が響いている。



 彼は彼女の弱そうな首筋に柔らかく噛み付いた。牙のないその歯で。
(2011/07/31)