ふわり
 その青い空を飛んでみたくなって、思わず身を乗り出した。



「何やってんだテメェ」

 頭をガシッと掴まれ自分の長い黒髪が乱れたのを感じ、あさぎは後方にあるだろうその不機嫌な顔を頭の中に浮かべながら相手を見上げた。

「やあ」
「やあ、じゃねえだろ。何やってんだって聞いてんだよ」
「急に空を飛びたくなったのよ。あるでしょ、時々」
「わからなくもねーけど実際にやる奴があるか!」

 彼女が見た相手は眉間にこれでもかというくらい皺を刻み、不機嫌な様を惜しみなく垂れ流しにしている少年だ。あさぎよりも頭一つ分くらい背の高い彼は彼女の上に黒い影を作っていて、端から見るとさながらカツアゲのよう。

「やりたくなったら、やらないと損だよ」

 へにゃり、と笑った彼女に少年は盛大なため息をついて呆れたような視線を向けた。何でこうも突拍子のないことをやってのけるのか。自分が来なかったらどうするつもりだったのか。少年――颯太は彼女が不可解な行動をするたびに考えているが、一向に解かる気配はない。いや、自分が来なかったら、と言うのに関しては窓の下を見て簡単に察した。体育倉庫の奥にあった真っ白く分厚いマットが、二つ下の階のさらに下、あさぎが落ちるはずであった場所に置かれてある。ここから落ちても死なないと思うほど彼女はは馬鹿ではなかったらしいと少しだけ安堵し、だったらそこまでして落ちようと――もとい飛ぼうとなどしなくてもいいのではないかと彼は思う。だが彼もまた馬鹿ではない。十年に渡る付き合いの中、あさぎの奇想天外な行動に関して自分が理解できたことなど一つもない。考えるだけ無駄だと早々に諦め、本人よりも先に外へ放り出されそうになっていたあさぎの鞄をその手から奪った。

「自分で持てるよ」
「保険だ保険」
「何の?」
「アサギがまた飛ぼうとしないように」
「何それ」

――首輪みたいだね。

 あさぎが言った。颯太は怪訝そうに目を細め、また眉間に皺を入れてあさぎを見る。

(首輪一つで縛られるような性格してないくせに)

 自由奔放という道を自分の好きなように曲がったり戻ってきたりしながら歩いているくせに。
 そう思ったところで思考を遮断する。いつも通り、馬鹿なあさぎの言動に呆れて眉を顰めている。そんな顔をして彼は一歩足を踏み出した。

「首輪っつーか、手錠の方が近いだろ」
「そうかなー」
「首には何もついてねーだろ」

 あさぎの細い首に、骨ばった細い指を当てる。颯太はニッと少年らしい歳相応な笑みを浮かべて「な?」と小さい子供に教え聞かせるようにして言った。あさぎは「それもそうか」とまだ納得がいかない声のまま、諦めたように言う。
 呑気な奴だ、と颯太は頭の中で呟いた。





 あさぎとは家が近所だった。まん前ではなく斜め前という微妙な位置だが、それでも小学校の集団下校なんかでは同じ班だったし、一番最後まで一緒にいるのはいつも彼女。あいつは変な奴だが案外社交的だ。人当たりがいいし友達も多い。ただ、どの人も広く浅くの付き合いしかしない。深く踏み入るような友人は、俺が知る限りいなかった。だからか、俺と彼女はいつでも一緒にいるような印象が、自分の中でもある。
 一つ年上の彼女は俺よりも少々幼い気がする。だから“近所のお姉さん”だったあさぎよりも身長が高くなったとき、別段何の違和感も感じなかった。

「首輪一つで縛られるような性格してないくせに」

 宿題が思うように進まず、わだかまりとして心に残っている言葉を口に出してみた。残念ながら逆効果だったが、今更なかったことにはできない。
 ずっしりと重みを持った感情が心の中で渦巻いている。それは彼女の何気ない言動一つで頭の中を簡単に埋めてしまうようなものだった。彼女のだけではない。母や近所のおばさんが言う「あんな可愛い子が“お姉さん”なんて幸せ者ね」なんて言葉にも反応する。

 それが何なのか、自分にもよくわかっていた。

 自覚したのがいつだったかをはっきり覚えているわけではないが、確かあさぎが中学に上がった年だったと思う。たった一歳の年の差がもどかしく感じられて、ランドセルを背負っている自分が酷く滑稽に見えた。やっと自分も中学に上がったと思えば、また一年先にあさぎが高校に上がってしまう。

『颯太がいないと寂しいなあ』
『留年すれば』
『それもいいかも』

 あいつが高校一年のときにした会話だ。
 期待させるような事ばっかり言ってんじゃねえよと罵倒しそうになったのを覚えている。今もあの頃も我慢強い方ではないが、本当に口に出してしまうほど子供でもなかった。耐えた自分は偉い。
 その無防備な笑顔にイライラした。好きなのに笑顔に苛立つとか、どういうことだよと自分にため息をついたこともある。

「少しくらいは、」

 警戒してくれたっていいんじゃないか。俺だって男なんだから。
 いくら年下でお前の眼中に入っていなかろうが、イケメンでなかろうがモテなかろうが、俺だって。

 駄目だ。

 ガシガシと乱暴に頭をかいた。あさぎに一番近いところにいるという自負がある。あさぎが家族以外で一番に頼ってくるのは自分だという自信が、根拠のない、確証のない、それがある。だがそれが間違っているとは思わないし、多分周りから見てもそうなのだろうという予想も持ち合わせていた。

 だからこそ厄介なんだよ。

 そう。だからこそだった。彼女の信頼を裏切りたくない。あさぎにとって自分という存在がどういうものなのかよくわかっているつもりだった。“頼りになる大切な幼馴染”。特別だ。ある意味では、きっととても特別だ。あさぎはああ見えて我侭や弱音を言わない。そんな彼女に『颯太がいないと寂しいなあ』と言ってもらえること自体、思えば特別なことであると少し前に気がついた。だがそれだけだ。幼馴染からは抜け出せない。
 どうにもならないという考えだけが頭の中にある。あさぎが彼氏という存在を作ることは考え難かった。明るくて気さくな彼女だから、モテるだろう。だけどその性格についていくのは相当難しいということを俺は知っている。できたって長続きなんかしやしないさ。それに彼女は決して軽い女ではない。しかも俺は、あさぎからそういう話を聞いたことがない。子供なんだ。まだ俺よりも幼い部分があるように、きっと恋愛に関しても。そう、思っていた。



「ごめんなさい」

 なんて運の悪い。自分の運の悪さに眩暈を覚えた。昨日あさぎが飛ぼうとしたことよりも遥かに酷い出来事のような気がする。あんなことを考えなければよかった、と自分の思考によって実現されてしまったかのような、そんな錯覚をした。

「好きな人でもいるの?」

 俺の知らない男子生徒が苦笑する。何かを堪えるような表情を見て、心臓が僅かに音をたてた。嫌な音だ。冷や汗か、脂汗か。熱くもないのに流れ落ちた。

「うん」

 少しだけ頬に赤を載せて、今まで見たどんな笑顔よりも可愛く微笑んだあさぎに背を向ける。いつもなら一緒に帰っているはずの下校道を全速力で突っ切った。本当なら今日も一緒に帰るはずだったのに、自分はその機会すら逃してあさぎのその笑顔から逃げたかたのか。なんて情けない奴なんだ、と頭の中で自分が叫んでいる。
 子供だったのはどっちだ。あさぎが恋愛をしていないと、本当に言い切ることができたのか? あさぎに警戒されなかろうが俺が男であるように、幼いところが残っていようがあさぎはれっきとした女だ。そんなことに気付かなかったのか。違うだろう。お前は――……

――お前は、目を逸らしていただけだ。

 子供だと思いたかったんだ。そうだろう。そうなんだよな。

「笑うなよ」

 自分の部屋に走りこんだ。母は走って帰ってきた息子を少し心配そうにしていたが、大丈夫だと言えば何も文句は言わなかった。乱暴に椅子に腰掛ける。気持ちが悪くて吐き気がしたが、そんな都合よく嘔吐できるはずもない。気持ちが悪い。中で何かが渦巻く感覚が乗り物酔いに似た感覚を俺に持ってきた。

「笑うな……」

 そんな顔で。そんな無防備な顔で、俺の前に現れるな。



「颯太、いる?」

 聞きたくない声がした。誰よりも聞き慣れた、今は聞きたくなかった声がした。「いる」。机に突っ伏したまま声を出すと、くぐもった音になって聞き取りづらい風になる。あさぎは遠慮がちに扉を開けて、部屋の中に入ってきた。チラリと目だけでそっちを見れば、髪は少し乱れ、息は上がり、頬はさっき見たのよりも赤くなっている。走ったんだ。そう直感したが何も言わなかった。

「……体調、悪いの?」

 確かに体調は悪い。だけど病気じゃない。なんと答えたらいいのかわからなくて返事をしなかったのを、彼女は肯定だと受け取ったらしかった。

「大丈夫?」
「……うん」
「颯太、学校にいなかったから変だと思って」

 急いで帰ってきたの。そう言って苦笑するあさぎの顔が見れない。初恋は叶わないなんて散々言われている言葉なのに、今思い出すとなんて重い言葉なんだと痛感する。そうだ叶わない。わかっていたが、わかっていなかった。実際にそうなったときの痛みなんて何一つ、俺は知らなかったのだと。

「颯太、私何かできることない?」
「別に」
「怒ってるの?」
「だとしたら、何でだと思う」
「わからない」

 おかしいな、と思った。いつでも誰より自由奔放なはずの彼女が、俺に対して遠慮がちに、言葉を選ぶようにして口にしている。彼女らしくないな、と思った。俺だって何度も風邪を引いて、熱を出したりだってした。だがあさぎはこうではなかったはずだ。スーパーに寄ってりんごを持ってきたり、ウサギのりんごを俺の口に突っ込んだり、あさぎはあさぎのままだった。

(それを言うなら、俺もか)

 あさぎに何も言わず、メールも入れず、一人で帰ったのなんかきっと初めてだ。

「別に、怒ってるんじゃないから」

 ただ距離を置きたかった。そう言ってしまったときのあさぎの反応はなんとなく理解できたからできればそうしたくはなかったけれど、失恋直後からいつも通りに振舞えるだけの神経までは流石に俺も持ち合わせていない。どう伝えれば、あさぎに辛い顔をせずに距離を離せるのか、考えたが全くわからなかった。いつもそうだ。彼女のことを完璧になんて理解できていない。だからこそ惹かれているとわかっていても、それが悔しくて仕方がない。

「颯太」
「何」
「告白されたよ」

 驚いた。今までもあっただろう。それでも俺にそれを言わなかったのだろう。あの告白シーンを見て、そう結論付けたのはきっと間違いではない。あさぎからそれを振るなんてことはないだろうと思っていた。俺の目が見開いたのを見て、あさぎは俺がちゃんと話を聞いてくれると判断したのだと思う。少しだけ微笑んで、「断ったんだけどね」と言った。

「“好きな人でもいるの?”って聞かれたから、“うん”って答えたの」
「それがどうしたんだよ」
「そしたら颯太がいなかった」

 は? と思っていたまんまの音が口から出ていた。いつになく神妙だから真剣に聞こうと思っていたのに、彼女の言葉はいつも通りあまりに突拍子がない。今の流れは、おかしい。とてもおかしい。自信を持ってそう言える。俺がおかしいのではなく、あさぎがおかしい。俺の頭もショックで正常とは言い難かったが、あさぎの方は思ったよりも落ち込んでいるらしかった。

「颯太がいなかったんだ」
「それに何の問題が」
「私が好きだって言ったから、消えちゃったのかと思った」
「何で俺が、お前が好きな人を好きって言ったら消えるんだよ」
「私が好きって言ったから……消えたのかと……」
「人の話聞けよ」

 駄目だ。何を言っているのかさっぱり理解できない。あさぎもいつも以上におかしいのだろうが、俺もいつも以上に理解力に欠けている。そんな状況でこの会話が成立するのか。それとも彼女は俺に話しを聞いてほしいだけで、回答なんて求めていないのか。なんなんだ一体。今何が起きている。
 失恋のショックが頭からぶっ飛んで、今俺の部屋で何が始まろうとしているのか考えるだけの余裕ができた。結局俺を悲しませるのはあさぎで、俺をそこから浮上させるのはあさぎの理解不明な行動だけなんだと嫌ってくらい理解する。

「私が颯太を好きだって言ったから、消えたんだと思って……」
「……」
「急いできたら、颯太が体調悪いって。だからやっぱり消えるか死ぬかするんだと」
「……アホか」

 まさかこんなことになるとは。
 失恋ではなくただの勘違い。少女漫画の定番すぎるにも程がある。あさぎも俺も、少女漫画を読むタイプではないというのに何でこんなことになったんだ。笑わせんなと叫びたい。このルートを選択した誰かさんに。

 とにかくこれから、俺の気持ちと、あさぎが誰かを好きだと言ったくらいのことでは誰も消えたりなんかしないことを、彼女に教えていかなければいけないと思った。

(まったく、骨が折れる作業だよ)
(2011/09/24)