納まりきらない、
 道を歩く。パシャリ、パシャリ。紅葉した木を、秋の花を、赤く燃える夕焼けを、眠たそうに欠伸する犬を、買ったばかりのケータイで撮る。母が「最近のケータイは写真もきれいねぇ」と言ったそれが、夕日を映して燃えているように見えた。
 ひゅうっと通り抜けた風が冷たくなっていて、もうすぐ秋も終わるのだろうと思いながら、このケータイを買った三日前から日課になっていることを――大きな大きな木を写真に収めることをする。ほうっと息を吐き出すと、それが白く浮かび上がった。

「白は、まだ早い」

 秋はもうすぐ終わるけれど、まだ終わってはいないのだから。薄手のコートのポケットに手を突っ込んだ。自分の手とコートの生地が触れ合って徐々に温もりを感じながら、木を見上げていた視線を下にさげ――はっとして斜め上へ持ち上げる。

 ――視線が交差した。

 隣にあった白い洋館からのぞく日本人らしい顔立ちの中、青く輝く美しい瞳と。
 目を見張った。
 赤い夕陽が照らされた黒髪に淡く浸食しているのを、その整った顔の中に埋め込まれた青い宝石を、私の目に写しこんだ。ケータイを持つ手が震える。それを落としてしまわないよう、ぎゅっと握りしめた。少年の無表情は彼自身の美しさとの相乗効果で人形のように見えた。白い肌はここからでもわかるほど、陶器のように白く滑らかで。
 一歩後ずさる。大丈夫、覚えた。こんなに綺麗なものは忘れない。そう確信した瞬間、ばっと踵を返し、走り出していた。

 次の日も彼はいた。私が木を撮りにくるその時間には、あの日から一週間、欠かすことなく二階の窓から顔を出していた。私が来ると、気が付いた時には彼がそこにいる。顎まである線の細い黒髪をサラサラと風に揺らして、本を読んだり音楽を聴いたりしつつ、時折私の方をチラリと見やる。時にはじっと見つめている。そういう視線を感じながら、あの青がこちらを見ていると思うとひどく落ち着かなかった。
 いつもと同じアングル、同じ位置からその木を写す。こんなに写真にハマるなら、ケータイよりもデジタルカメラを買ってもらえばよかったと思う。ちゃんとカメラで美しいものを撮ってみたい。うちにもあることにはあるけれど、あれは私のものではないから、撮ったところでなんとなく意味がないような気がして。

 そんなことを思考しながら、毎日毎日その木を撮っていた。

 それほど時が経たないうちに冬になった。
 赤い葉が茶色になり、散っていくのはあっという間だ。その木を見上げ、一枚だけ残った葉を見つめる。ゆらゆらと力なく揺れる様はとても弱々しく見えた。

「頑張れ」

 心から意図せず出た言葉と共に、私は木に向かって笑って見せる。ふとあの少年のことが気になり見上げてみると、彼は驚き顔で私を見ていた。

 私が少年の表情を見た、初めての日だった。

 冬の木というのはどことなく寂しさを増強させるものだと思う。同時に、青々茂る葉が落ち、色素の薄いこげ茶色の幹がそこに立っている様子は、プライドの高い孤高の王のようだとも。だけどそこに鳥がとまるような、そんな些細な変化だけで暖かく優しいものへと雰囲気を一遍させるような、そういう面も持ち合わせていた。その変化というのが、私よりもずっと年上の巨木から感じる魅力の一つでもある。
 すっかりと冷たくなった冬の景色に、私の息がふわふわと空気を形作った。冷たい手にはあ、と息をかけてこすると、一瞬暖かくなったがすぐに冷たくなってしまう。マフラーはしっかりまいてきたのに、手袋はケータイの操作をするときに邪魔だと持ってこなかった。それを少々後悔しつつ、洋館の方へ目をやった。少年と目は合わない。
 あの日から彼がそこにいることが私の日常になっていた。
 私たちの間に言葉はない。だけど時々合う視線と視線でのコンタクト。少年と交わすそれにはもう慣れて、以前のような、逃げたくなるほどの背徳感を感じることはなくなっていた。

 ただ美しいと思う心は消えるどころか色あせることもなく、私の中で静かに停滞している。

 十二月二十五日。十月の初めから続けていた木の撮影は、生活の中の一部として溶け込んでいた。雨が降ろうが雪が舞おうが私はそれをやめなかったし、彼も窓から離れはしなかった。毎日同じ時間に私がその場所へ行くことが、その時彼が窓の近くにいることが、暗黙の了承になっていた。逆に言えば、それだけが私達の繋がりで、私はそれが心地よかった。一日でも来なければ壊れてしまうかもしれない。そんな脆く薄い関係が消えていくのを、心の奥底で恐れている。
 パシャリ。薄く雪を被った木を写真に収める。終わって中のデータを確認していると、頭に何かが当たる感覚がした。固くはない。だけど先が若干尖っている。パサッと音を立てて道路に落ちたそれを振り返ってみてみると、真っ白な紙飛行機があった。周りを見渡して誰もいないことに気付くと、私は建物を見上げる。いつも無表情な彼が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。首をかしげて見せると大きなため息をついて、それから近くにあった分厚い本を取り出し開閉してみせると、わかった? というような顔をして、私に行動を促した。少々不安になりながら、こういうことか、と紙飛行機の翼をつまみ、開いてみる。

『メリークリスマス』

 鉛筆で書かれた文字がそこにあった。びっくりして顔を上げる。彼は私の驚いた顔を見て口元に薄い笑みを乗せ、してやったりという顔をした。それすら美しいというのだからどうしようもない。

「メリークリスマス!」

 マフラーを下し、叫んだ。相変わらず白い息を吐き出しながら寒さに赤くなっているだろう鼻を晒している私の姿は、美しい彼とは違いとても滑稽であるだろう。そんなことも気にしていなかった私は、ただ彼に言葉を返したかった。
 彼は驚いた顔をして、それから困ったような呆れるような、優しい笑みを浮かべた。

 紙飛行機の一言が、私と少年の初めての言葉になった。

 それ以来、私達の間に言葉はない。相変わらずの無言の時間は、お互いが意図して作っているようにも思えた。ただあの日から、目が合うということに対する感覚が変わった気がしている。毎日毎日飽きもせず木を写しにくる私に、彼はよく呆れたような笑みを見せるようになった。その青い瞳が「よくやるな」と言っているように思えて、私は時折舌を出した。そんな穏やかな日々の中、彼が時々意地の悪くない笑みを見せると、パッと空気が華やいで見えた。

「またいくの?」

 大した趣味のなかった私に毎日写真を撮るという日課ができたことを、母は心から喜んでくれた。秋はまだ暗くはない時間。だけど冬になると街灯がなければ先が見えないほどの闇。そんな時間でもいってらっしゃいと笑顔で送り出してくれる。彼の家の周囲は家がない。住宅街の奥に位置しているからだと思う。当然街灯もすくなくて、冬が奥まっていくにつれて彼の笑顔は見づらくなっていた。
 それでも私はいくことをやめない。彼も、そこから見下ろすことをやめない。

 そんな不思議な雰囲気が、私と彼の間にずっと存在していた。

 雪が溶け、緑の季節になった。あの木は次第に蕾をつけ始め、植物に詳しくない私でも薄々何の木であるのかがわかるほどになっている。
 一輪だけ花の咲いたその木をいつもとは少し違う形で、少々高揚した気分で写真に収めた。
 まだ満開には程遠い。だけど冬の王様よりもずっと生気に満ちたその木を見られることが嬉しくて、彼にもそれをわかってほしくて、窓の方へ目をやった。

「あ……」

 そうだ、今日は彼がいない。
 きたときにいないのはいつものこと。でも五分もしないうちに顔を出すのが“いつも”。今日はなぜかそれがない。なぜか? それは今が昼過ぎだからだ。

 帰ろう。

 名前も知らない少年がいないことがこんなにも違和感になっていることが不思議だった。だけどそれが日常だったのだから仕方がない。彼は容姿を見る限り同年代であるのだから、学校だろう。そう思い踵を返す。

「桜」

 その先に彼がいた。

「桜だったんだな」
「……」

 決して新しくない、それでも綺麗な制服を着て、左手に持った丸筒で自分の肩をポンポンと叩く彼がいる。意地悪そうな笑み。向けられた顔は見慣れた美形で、視線はいつもほど上からではなく、私と同じくして地に足をつけている。その姿を見た瞬間、急に現実味が増した。

「一輪咲いた」
「……そうだね」

 可愛い花を優しい視線で見つめる少年は、物語の中の王子様のような顔をした少年は、普通の、多分ちょっとお金持ちな家に生まれた学生だということに、いまさら気づく。

「中学校は今日卒業式だったんだ?」
「あれ、中学だってわかった?」
「一年くらい経ったところで、今まで着てた母校の制服は忘れないよ」

 「そっか」。それこそ花のように笑う彼は、私の後輩だったのだと。

「……頼みがあるんだ」

 手に持ったそれをぎゅっと握りしめる。あの肌寒い気温の中、ケータイを握りしめたのとはまた違う緊張感と、手の中の物体の大きさに自分でドキリとする。彼は微笑んで「何?」と問うた。またドキリ、と心臓が動く。

「撮らせてほしい」

 君を、これから華やぐであろうこの楚々とした桜の木と一緒に。

 初めて買ったインスタントカメラを見せて、できるだけ気丈に振る舞った。十文字にも満たない言葉の羅列は自分でもわかるほど強張った声色で、まだ名前も知らない後輩を相手になんて情けない、と自らが思ってしまうくらい頼りなかった。それは枝から落ちそうになっている最後の木の葉よりも弱々しく、彼の耳に届いたかどうかも怪しい。
 俯きがちになって彼の声を待った。今の私の心臓は、元々人前に出ることが苦手な私が全校生徒の前でたいして上手くもない歌を披露しなくてはならなくなったとしたらこんなだろうと思うくらい、バクバクと騒がしい。私は今、なんて恐れ多いことを、とまで考えてしまっている。彼はただの一般高校生予備軍の大勢の中の一人だというのに、まるで有名人であるかのような思考だ。

「アンタも一緒に写るなら」

 私が被写体になったら誰が撮るんだという言葉を、彼の笑みを見て飲み込んだ。
 今までに見た中で一番優しい笑顔だと、そんなことを思って口を噤んでしまう。そんな自分が悔しくて、それを紛らわすためだけに眉間に皺を蓄え、私は彼の存在を睨むように見た。
(2011/11/17)