白に溶かしてほしい
 白く降り積もる雪を、両手をいっぱいに広げて歓迎した、あの頃の私達の目はどんなに綺麗だっただろう。



 本のページをめくる音だけが耳に入っていた。何ページが読み進め、はあ、と息をついて閉じる。冷え込んだ気温は暖房を入れていない部屋の中すら冷蔵庫か何かのように冷やしていた。読書をしていた数時間の間空気の中に放り投げられていた足にはつま先の感覚が既に無い。手を伸ばして触れると、その温もりすら瞬時に持って行かれるほど冷たいことに眉を顰めた。
 窓の外は真っ暗で、チカチカともうすぐ寿命だということを知らせるように点滅している蛍光灯だけが視界に入る唯一の光源だ。人工的な光に目を細め、冷たい窓に触れないぎりぎりのところまで顔を近づけて上を見てみると、白い月が綺麗に浮かんでいるのが見えたがやがて自分の息で窓が白くなり、それも見えなくなった。
 六畳の部屋にこたつはない。リビングまでいけばあるが、またこんな時間まで起きてたのか、と言う父の姿が脳裏に浮かんで諦めた。あの人は別に責めはしないだろうが、呆れたように苦笑するだろう。自分だって起きているくせに、と脳内の想像に立腹しながら時計を確認すると、たった今午前二時をまわったところだった。ここまで来たら誰が起きていようと“夜更かし”だなと思いつつ机の上にあった缶に残るコーヒーをぐいっと飲み干す。

「冷たい」

 それはそうだ、と納得する。本を読んでいたのが大体一時間。風呂上がりの熱気すら瞬時に吸い取る冷気の中、自販機の“あったか~い”という表示につられるようにボタンを押して出てきたこれが、その間ずっと保温しておいてくれるかといえば、それは無理な話だ。はあ、とまた息をついてからよいしょ、と重い腰を上げる。寝よう。顔を洗って歯を磨いてから。
 冷たい廊下は、足の裏のまだ辛うじて温度を感じ取れる部分が冷たいと悲鳴を上げるほど冷えていた。長いジャージの裾も袖も、あまり私を温めてはくれない。一瞬ブルッと身震いして、それから一歩一歩確実に踏み出す。冬のフローリングほど心臓に悪いものはない、と心の中で唱えるもつっこんでくれるものはない。木の階段がパキ、と小さな音を鳴らすのを聞きながら、暗い廊下を長年の感覚を頼りに降りた。洗面所に入り、鏡を見る前に電気のスイッチを手探りで探した。毎度毎度、これだけは慣れない。暗闇で見る鏡は、テレビで見るホラー映画よりもリアリティがあって怖い。それが自分の顔であるとわかっていても、普段見慣れない姿のそれに心臓が嫌な音を立てる。そしてそれを見た日の夢見は最悪に悪い。

「あっ、た」

 パチンッとやや勢いづいて押したそれは、初めのうちチカチカして、やがて安定した光を私にふりかけ始めた。昨日の夜から同じままになっていたタオルを洗濯機に放り込んで新しいタオルを出してくる。寒いというのに袖をまくって、水道の蛇口を上げた。
 冷たい。まだ温まっていない水が手に容赦なく体当たりして、やがてお湯が出てくるとジーンとした温もりが手のひらを伝った。パシャッと顔にお湯をかける。暖かい。いっそこのまま、頭から被ってしまいたいくらいには。

「智香」

 その人の気配に気づかないくらい、気をぬいてしまうくらいには。

 声に湯を止めた。眼鏡の奥の目は、顔は、相変わらずの無表情だった。

「またこんな時間まで起きてたのか」
「本、読んでて」
「急に電気がついたから泥棒かと思って驚いたぞ」

 手に持っていた、パソコンのキーボードに溜まった塵を吹き飛ばすのに使うスプレー缶を胸の位置まで持ち上げる。それで何をするつもりだったのかと聞いてみたい気もするが、聞かなくたってわかる。普通、もう少し強そうなものを用意するだろうに、と思えば私が小さい頃から一向に変わらない彼の性格に笑いそうになった。泥棒かと思って驚いた、と言いながら全く驚いた顔をしないでバレバレの嘘をつくな、と言いたくなって、でもこんなくだらないことで嘘をつくような人ではないことを十二分に知っている。

「ココア飲むか」
「飲む」

 母さんには内緒だぞ。そう言って昔怒られたときのことでも思い出したのか「おー、こわ」と小さく呟いた。今は寝ている母に父が口喧嘩で勝てるとは思えないために、その様子が容易に想像できてしまって堪えきれず噴出す。

「笑うなよ」

 こつんと頭を軽く叩いてキッチンへ歩いていく後姿に、最近自分が似てきたと母に言われたのはついこの間だ。一応女の身でありながら父に似てくるというのは複雑で、その似ているという部分が面倒くさがりなところだというのだから余計に微妙な気持ちになる。
 はあ、とまたため息が出た。緩慢な動きでもぞもぞとこたつにもぐりこむ。ノートパソコンと父の仕事の書類だけが乗っているこたつは少々味気なく、みかんがあったらなあ、と思った。

「ほら」
「ありがとう」

 暖かいマグカップが目の前に差し出され、一口飲んだ。ほのかな甘みはスプーン一杯分の砂糖の味だ。よく覚えていたな、と父を関心するような目で見て、ふ、とそういえば父も同じ分量の砂糖を入れるのだったと思い至った。
 父は仕事ができる人らしい。だがやる気という面に関してはほとんどないと思われる。ほどほどの大きさの会社で働いていて、最近は腰痛を理由に上司から在宅勤務を許可されたらしいが、先ほど普通に歩いていたので腰痛というのもどの程度のものなのか、そもそも最初から痛みなんてないのではないか、と思ってしまうほどだ。今も仕事用にパソコンを開いてはいるようだが、画面に映っているページは通販のページで、仕事の資料らしきファイルはタスクバーの中に収納されている。

「何か買うの?」
「ああ。お前、好きな色は?」
「……黒?」
「地味だな」
「おい」

 急に好きな色なんて聞いておいて、人が好きだと言った色に対して地味だとは随分な言いようだ。その間も父はマウスでなにやらカチカチやっている。さっきの質問は何だったのだ。よくわからず、ココアを一口飲む。

「……よくわからんな」
「わからないのは私だ」
「何の話だ?」
「いや、もういい」

 脱力してふっと息を吐くと、父はノートパソコンの画面を私の方へ向けた。そこにはルームシューズの画像が並んでいて、これを父が見ていたのかと思うと少し意外だ。

「母さんにプレゼント?」
「それとお前にな」
「私も?」
「廊下、冷たいだろう」

 さっきのを見ていたのか、と思うくらい的確な私の悩みへの解決案を提示してくる彼に驚きつつ、それなら、とその中で気に入ったものを指差す。母と私は好みが似ているから、同じ形の色違いを提案した。

「智香」
「何」
「雪だ」

 雪、と小さく繰り返し、カーテンの開いた窓のほうを見る。白い粒がパラパラと舞っているのを見て、ふと昔のことを思い出した。
 年々暖かくなる気温の中、北のほうでもないのに雪が降り積もるということもなかなかない。ほどほどの交通量を保つこの地域でも、積もるなんて運がよくて年に一、二回だ。綿菓子のように白い雪の地面に手を触れて、予想外の冷たさにパッと手を引っ込めた幼い私は、それでも雪が大好きで、できるだけ大きな雪だるまを作ろうと小さなからだで奮闘していた。素手で雪に触れている私を見つけた両親が赤い手袋を持ってきて、「手が氷になっちゃうよ」とにこやかにはめてくれたことは、雪が降るたび微かに思い出す光景だ。少しめくればコンクリートの黒い肌がむき出しになる現代。綺麗で大きな雪だるまを作るのはとても難しい。雪合戦をしようものなら中に砂が混じるのなんて当然のことで、綺麗な雪を小さな手ですくい、丸めて相手にぶつけるあの遊びを子供達がやっているという話はあまり聞かなくなってしまった。屋内で友人とゲームをするということを覚え、次第に外から中へと住処を変えてしまった子供達は、とても“風の子”とは呼べない。だがそれでも、白いそれには目を輝かせるのだ。

「今の子供は大分インドアになったね」
「お前も大概だ」
「小さい頃は外で遊んだよ」

 冬だけな、と彼も思い出を探っていたのか、穏やかな表情で微笑む。そうだったかもしれないけど、と確かに夏に外へ遊びにいった記憶があまりない私は言葉につまりつつ、頭の中では今の子供達よりは健康的だったと反論したくなった。

「積もるかな」
「多分な」
「そっか」
「……明日積もったら」
「うん?」
「雪だるまを作ろう」

 カチカチとマウスを操作し、注文を確定しながら父が言う。眼鏡にパソコンの青白い光が映って、目の色が薄くしか見えない。

「私、もう高校生なんだけど」
「母さんと、お前と、俺とでな」
「ねえ聞いてる?」
「時々は外に出ないとな」

 俺も、お前も。歳を重ねるにつれ、用事がなくて外へ出ることはほとんどなくなってしまった。せいぜい通学と買い物くらいでしか家の扉を開けない私達は、よく母に「ちょっとは外へ出ればいいのに」と苦笑される。こうやってコタツに入っている後姿さえ似てきたというのだから、私と父はよっぽど気性がそっくりなのだろう。

「……三段にできるかな」
「雪があればな。足りなかったらお隣さんからもらってこよう」
「鼻はニンジンだね」
「お前が小さかった頃の手袋もある」

 小さい頃は力も体力もなくて、三段雪だるまなんて作れなかったけど。
 二人でこんなことを考えたと言ったら母は喜ぶだろうか。幼心を忘れていない明るい母の笑顔が思い出されて、二人でクスクスと笑った。

『母さんはいつまでも可愛いだろう』

 いつだったか、父が惚気話のように零したその評価を、最初はただ外見だけのことであると思っていた。だけど今は。
 雪にまみれ、必死になって雪玉を作った幼い頃を、まだ覚えている。歳を刻むのに比例するように内にこもる率が増え、ドキドキワクワクするようなものが減っていくのがわかってしまう。私が大人になる頃には、そんな気持ちは一つもなくなってしまうのだろうか? その寂しさが、既にいろんなものを削りとった私にはよくわかっていた。だけどそれはどうにもできないことなのだと半ば諦めて、でも捨て去ることが辛くて、小さい頃の思い出を今の自分のことのように覚えて、大切に大切にしまって。
 そういうことをだんだん自覚するようになった今は、自分の母の心が未だに子供のように白い部分を残していることに気づくのだ。
 あの頃の真っ白な心を、私達はいつでも取り返したいと思いながら、それを保つことの難しさに心が割れるような、取り返しのつかないことをしてしまったような感覚に見舞われる。一度汚いものに触れてしまった心はもう元に戻らない。

「母さんはいつまでも可愛いね」
「そうだな。雪だるまに本気で喜べるくらいには」

 だからせめて、真っ白な雪に触れているときくらいは幼い頃のそれになれるよう、あの頃の私達のように、白く降り積もる雪を、両手をいっぱいに広げて歓迎しようと思う。
(2011/12/18)