若人は恋に酔う
 教室の窓から見えるもの。奥に山。手前にはスーパー、服屋、電気屋にパチンコ店、マクドナルド。それらさえ見なければ自然の緑は酷く美しく、私の目には映った。しかしながら、そうするためには手で視界を遮らなければならない。別にそれが億劫だと言っているのではなく、今現在行動に移してしまい、なおかつそれを見られてしまうと、間違いなく私は “変な人” になるのだろうとわかるものだから、流石にそれははばかられたのだ。

 人の世は面倒くさい。子供は学校へ、大人は仕事へ。鳥になりたい、と言えばまた定番の文句であるが、私は正直人間でなければなんだっていいと思っている。精一杯生きるだけ生きられるならどんなに幸せだろうか。 “生” というものを全うする、ということにおいて、人間以上に恵まれていない生物はいないような気すらするのだから、私はつくづく生まれるものを間違ったようだ。

 眠いのを装って顔の前へ手を持っていき、チラリと外の山だけを見てから目をこする。すると前で授業をしていた担任の頬がヒクリと動いた。本当に眠かったわけではないと反論する理由もなく、眠くても目をこすってまで授業を受けていますよとアピールすることもなく、私は一通り写し終えた板書の続きを待っているという風体をとりあえず整えるために握りたくもないシャープペンシルを右手に持ちクルクルと回しながら、自然を侵した人工物が立ち並ぶその風景を見つめため息をついた。それを見ていた彼の担任は、必死にノートをとっている他の生徒に気づかれないよう、小さく、しかし重いため息を吐いてみせる。
 なるほど、私が疲れているように、彼も疲れているらしい、と自分のしていることを棚に上げて私は思った。



「注意力散漫」

 例のごとく放課後に呼び出された私は、椅子に座る前に担任からそんな嫌味を受けた。
 呼び出されたのは彼の授業で外を眺めていたからではなく、その後の生物の方で寝こけたのが原因だろう。遠慮の欠片もなく寝るものだから、大方あの若い女教師が毎度寝ている私にしびれを切らしたに違いない。「おたくの垣原さん、寝てばかりなんですけど……」としおらしく言っておけば、あらかたの教師は対応してくれるのではないだろうか。しかし、先ほどの文句は彼の授業のことと見て間違いない。「外にそんなに面白いもんがあったのか? え?」とでも言い出しそうなくらいの眉間の皺は、あと一時間もすれば勝手に取れそうだ。

「何で呼んだんですか」
「わかってるくせに聞くな」
「生物?」
「ほらみろ」

 はあ、と本人を前に遠慮のないため息をつくその姿に今更不快になったりはしない。別に素行が良いわけでもなかった幼馴染のお兄さんが教師になったのは、もう二年ほど前の話だ。そしてそれが、今目の前にいる和田というこの担任なわけで。

「……だってあの先生、 “ね” が多くて聞き苦しいから」

 悪びれず、わざわざ笑って言って見せると、「お前はこんなときばっか笑う」と年下の無愛想な幼馴染にたいする不満が返ってきた。感情表現が率直な声は昔からで、それが面白くて思わずからかってしまうのも昔からだ。

「それ、本人に言えるのかよ。ここで言ってるだけだと陰口みたいだぞ」
「言ってこようか」

 私が陰口の類の陰険なことを嫌う性質であるのを知っていて、彼は私の口を閉じようとそう言ったのだろう。だがそれに従う私でもなく。それならば、とそんな雰囲気で腰を浮かすと、予想外の反応に少し目を丸めてから、慌てもせずに「やめろ」と制止する声がかかった。
 彼は彼女が好きなのだ。一つ年下の、あの若い女教師が。彼はそれを言わないけれど、それは流石に幼馴染と言うべきか。歳と経験値に差はあれども、なんとなくでわかるというものだ。

「まあ、それでも平均より十点上なんだから凄いよお前」
「そうですか」
「……褒めてないからな?」
「知ってますけど、何か?」

 最近の私の言動は彼のため息を煽るのに随分適しているらしい。またもはかれたため息を聞き、それでも私は言動を改めようとは思わなかった。

(今日だけで三つ、幸せ逃げた)

 迷信だとは思うのだけれど。幸せは彼からさっさと逃げてほしい。そして彼女に告白して、ふられてしまえ。

「にしてもお前、こんなに集中力なかったか?」
「ありますよ、集中力」
「いや、ないだろ」
「あります」
「だったら授業に使えよ」

 それは無理です。スパンと音が鳴りそうなくらいハッキリと返すと、彼はげんなりしたように手を額へ持っていった。
 注意力も集中力も、ないわけではない。あえて言うなら興味がないのだ。他のことに対するそれの方が断然強く、授業に向けることにすら勿体無いと感じてしまう。
 元が不真面目、というよりは、自分に素直なのだと私はいつも主張した。返ってくるのは「大分甘く、ビックリするほど良く言えばな」と強調された否定の言葉なのだから、彼は相変わらず私をよく見ていないと思う。

「帰ってもいいですか?」
「……反省したか?」
「しましたよ。次の授業は転寝しながらでも聞こうと思う程度には」
「それ全然してないだろ! 帰るの駄目!」

 ピシッとまた浮いた腰をみとめ、肩を押さえて座らせる。反省なんてするつもりは微塵もない。それこそ考慮する余地すらないほどに。それなのに反省するまでここにいろ、とでも言われたとすれば、最終それがどこまでいくかというと寿命の尽きるまでである。
 はあ、とついたため息は、和田のものよりも数段重いものだった。彼は「ため息つきたいのは俺の方」とまたなんとも定番な切り替えしで大して気にしなかったようだが、それがまたため息を誘う。

「そういえばさ」
「なんですか」
「そう、それ」
「それ?」
「敬語。何で?」

 「今誰もいないんだから」と言う。幼馴染相手に敬語を使われるのに変な感じがすると、そういうことなのだろう。
 私達は歳は離れているけれど、親の仲がすこぶるいいために昔からよく一緒にいた。それこそ本当の兄妹のように育ってきて、彼も私を妹だと思っているし、事実この間までは私も彼を兄だと思っていた。しかしそれは今の私の本意ではない。

 私が入学したとき、一年の担任が彼だと聞いて喜んだ。だけど中学の頃からやきもきしていた彼との “歳の差” というものを強く感じてしまって、しかも彼の生徒になったことで一層 “妹” だと思われた気がして。子供じみた反抗だと思う。 “生徒” にはなっても “妹” にはならないと、そういう意思表示。敬語で話すのも、学校から帰っても以前のように遊びにいかないのもすべて。
 無駄なことだとわかっていても、そう示さずにはいられなくて。
 かないそうもない恋を目の前にして、何もないかのように、平常心であるようにふるまえる私は凄い、とせめて自分で自分を褒める。
 好きだなんて伝えたら、どうせあんたは「憧れと間違えてるんじゃないか」なんてそんなことを言うんだろうけど、私を見てくれないあんたに私の気持ちの何がわかるの。なんてそんなことを勝手に思うけど、それはたぶん間違っていない。断るときの定型文。生徒だから、妹だから、 “だから” そんなこと考えもしなかった。そんな言葉は聞きたくない。
 だって私は知っている。

 和田が彼女を好きだって。

「どうしたんだ?」

 黙り込んだ私を不思議に思ったらしい和田が、私の顔を覗き込んだ。その目には、兄としての気持ち以外は映っていない。
 私を見捨て、出て行こうとした幸せを押し込んで、今度こそ椅子から立ち上がった。怪訝そうにしている彼を一瞥し、私は彼に背を向ける。

「何も」

 ただ、見たくないだけ。そんな目を。
 職員室から出ていくまでに、呼び止める声はかからなかった。



「和田先生、山中先生と付き合ってるんだって!」

 小さな声で運ばれてきた噂話は、今更私を驚かせたりはしなかった。
 昨日、驚くほどに機嫌がよかった彼を見て、勘付いたのは私。「何かありましたか?」と聞いたのは私。

『付き合うことになったんだ』

 そう嬉しそうに微笑んで、大好きな笑顔を久々に私に向けたのは、彼。

「知ってるよ」
「え! あ、そっか。幼馴染、なんだよね?」

 誰にも言っていない恋心を未だひた隠して、「うん」とそれだけ声を返した。
 昼休みの喧騒は、耳に入っているはずなのに随分遠くのことのように感じる。廊下の騒ぎも、噂少女の冷やかし交じりの声も、全てが祝福しているように聞こえて耳障りだった。「トイレ」。一言言って立ち上がり、廊下へ出る。向かうのはもちろんトイレではない。
 次は和田の数学だ。出たくない。ならば出ないでおこう。この時期ならば屋上の鍵は開いているはずだ。一時間くらいサボったところで、数学ならば多分、恐らくなんとかなる。

 彼の気を少しでも引くために、高校に上がって初めて居眠りをした。彼に少しでも見てもらえるために、使いたくもない敬語をつかって、彼の優しさをもらうために、不真面目でも成績はできるだけ高く高く。

「雪花?」

 学校の中でも遠慮なく名前で呼ぶ彼の声は、もうしっかり耳が覚えてしまっている。職員室からうちの教室に向かっていたらしい和田のそれに、いちいち反応してしまう自分の心に気づいて、結局やっぱり “憧れ” じゃなく “恋心” だったのだと再確認した。だから、今更。そう思うのに、急にやめることなんてできなくて。
 一月ほど前職員室に、放課後呼び出されたことを思い出した。あのときからなんとなく、こうなるような気がしていた。覚悟はできていなかったけれど、予想はできていた。だから、きっとまだましだ。知らずに失恋した子より。

「なんですか?」

 調子は変えたりしないで、できるだけ無表情に。そうすれば和田は気づかない。酷く鈍い彼は今、付き合いたてで浮かれきっているから余計にだ。絶対に気づかれないという、自信があった。

「どこ行くんだよ。昼休み終わるぞ」
「トイレです」
「わざわざそっちの?」
「だってあっち、女子がたむろしてるから」

 また “だって” から始まる理由を語る。まるで言い訳をしているみたいな言い方だな、とぼんやり思った。
 彼は怪訝そうにしながらも納得して、「さっさと帰ってこいよ」と一言。帰らないよ、と心の中で。立ち止まったままの私の横を、彼が通りすぎる、その瞬間に。

「おめでとう」

 小さく呟いた言葉は聞こえていなかっただろう。和田は横をすれ違うその瞬間、私の頭をポンと軽く撫でていった。いつもの癖。小さい頃からの、習慣に似たものだ。いつものこと、いつものこと、と思うのに、結局私は妹か、とやはりもどってきた思考回路が頭の中を黒く侵す。

(私が逃がした幸せは、できたら戻ってあげて)

 ため息の数だけ逃げるというなら、きっととても多いはずだから。

 固まったまま動かない私を無視して時間は進む。無機質なチャイムの音が耳に響いて、それすらやはり遠いことのようで。私は俯き自分の上靴の先を見て、教室の方の音を必死に探っていた耳を軽く塞いだ。「先生おめでとー! 捨てられないようにせいぜい頑張んなよ!」「うっせー余計なお世話だ!」。幸せそうな声が聞こえて、はっと吐き出すような乾いた笑いが漏れた。
 未だ鳴るチャイム。今日はゆっくりなような気がするな、そう思って。

「好きでした」

 屋上への一歩。まだ捨てきれない思いを抱えて踏み出したそれは決して軽くない。サボる気満々な私の動きに教室の中の教師達は気づかない。階段を上がる私の姿に、生徒たちは目を向けない。好都合だ、とほくそえんで、しつこい恋心を紙を丸めてゴミ箱へ入れるように捨てる方法を考え出した。
(2012/05/10) 雪花という名前は雪中花という水仙の別名から。黄水仙の花言葉「愛に応えて」。