幸せな恋だった
 いつも遠くから見ていた。
 特別かっこいいとか特別面白いとかそういうことではなくて、穏やかな雰囲気だとか明るい言葉の放ち方とか、そういうことで人から好かれる人だった。木村くんは太陽のような男の子だった。
 昼休み後の授業の時、窓から差し込む太陽の光でぽかぽかとして必死に欠伸を堪える姿が好きだった。耐えきれず少しだけと目蓋を閉じたら首がガクンとなって、先生にバレて皆の笑いを呼ぶ。音読の声は柔らかいけどハキハキしている。数学の問題がわからないと少し癖のある髪を指先でクルクルとする。ふわふわした少し明るい髪が地毛だというのは彼からではなく人伝に知って、誕生日も、好きなものも、本人から聞いたことは一つもないけれど、そりゃあそうだ、接点なんてあまり無いのだからと聞き分けのいいふりをして、興味がないふりをして、実は窓辺の席から人一倍、彼の声に耳を澄ませ、彼の姿に視線を向けていた。
 好きだなあと思った。ただ好きだなあと。
 驚くべきか喜ぶべきか三年間同じクラスの私は、席替えのたびに『近くの席になれますように』と願った。だけれど『緊張するから隣と彼の前は無しで』と思った。そんなふうに臆病だから、自分から話しかけることも、彼のことを貪欲に知ることもできないでいるのだとわかっている。けれどその距離が幸せだったのだ。感覚を澄ますだけで自然と入ってくる木村光輝という人物は、どこまでも自然なように思えて、私はそれが嬉しかった。「おはよう」だけでいい。「バイバイ」だけでいい。それだけで彼の暖かさを理解するには十分だと私は。彼の視線の向く方がわかっていたからこそ、そう思っていて。
 けれど、もう数ヶ月でそれも終わるのだなあと心の隅で寂しがった。

「若菜ーお待たせー」

 昼の喧騒の中で礼香が私を呼んだ。

「遅いよ。昼休み終わるんじゃないかと思った」
「ごめんごめん。購買混んでてさー」

 そう言いながら私の前の席に座る彼女。その席は今は木村くんの席だった。教室の窓際一番後ろに陣取って、その上私は彼の後姿を毎日見ていられる。なんて贅沢な場所だろうと、この席になった当日は家に帰って興奮が治まらなかったほどだ。その席の主は今、廊下側の男の子の集団の中に居る。三年間彼の声を聴き続けてきた私には、懐かしい駄菓子の話で盛り上がる彼等の声の中から間違いなく木村くんの声を拾うことができた。

(カリカリ梅かあ。美味しいよね)

 自分の好きな物を彼も好きと聞いて小さく頬を緩める。ウキウキした気分でお弁当箱の包みを開いていると、向かいからジッと視線が飛んでいるのに気が付いた。

「顔に何か付いてる?」
「いやあ……」

 言い辛そうに口籠りながら焼きそばパンに齧り付く礼香に私は首を傾げた。いつも行き過ぎなくらいズバズバと物を言う彼女がそういう態度なのは珍しい。

「若菜はさあ、いいの? このままで」
「え? 何が?」
「……木村のこと」

 ボソッと小さな声で、困ったように彼女が言った。心臓がドクンと脈打った。今まで誰にも話した覚えの無いことを、なぜ礼香は知っているのだろう。

「……何のこと?」
「誤魔化せると思てる? 高校上がって二、三年ずっとあんたの友達してんのに、ずっと見てるの気付かないわけないでしょ」
「ごめん……」
「いいけどさあ」

 「何も言わなくていいの?」とその一言に目が覚めたような気持ちがした。目を丸くして黙る私に、礼香は慌てたように口を開く。

「いや、別に言わなくてもいいと思いはするんだよ。そういう恋愛の形もあると思うし、高校のいい思い出として綺麗なまま何もしないでとっておくっていうのもね? ……嫌だった?」
「平気。……考えてもみなかったよ」
「え、一度も?」
「一度も」

 そう、一度もなかったのだ。見ているだけでいいと、声を聞ければ幸せだと思っていて、三年最後の席替えで前後になって毎朝挨拶もできるようになったのだ。寂しいけど、幸せなまま終われてよかったなあとすでにエンディングモードになっていた私には寝耳に水だった。そうか、伝えてもいいのか、と俯きがちに思う私を、礼香は心配そうに見ている。

「……言おうかなあ」

 ポツリ、呟いた私に彼女は目を真ん丸くした。

 昼休みの間にルーズリーフの隅を切り取って書いたメッセージを木村くんの机に入れた。こんな寒い日に外に呼び出すのは申し訳なくて、「放課後教室に残っていてくれますか?」と尋ねた手紙に彼が応じてくれるかどうかが気がかりだったけれど、応じられなかったらそれまでだ。その時は手紙の主だと名乗り出ることなんてせずに、静かに席を立って帰ってしまおうと思っていた。けれど、その予定は必要がなく、木村くんはいつも一緒に帰っている男子に「今日ちょっと用事あるからー」と一声かけていたから。
 教室から声が一つ、また一つと減っていくのを聞きながら、私は電車で読もうと思っていた文庫本を広げ、二人きりになるのを待っていた。教室の中がガランとして、沈黙が耳に届いた頃、私は小さく深呼吸をして本から目を離す。周りを見回す私に彼が「清水さん」と声をくれた。

「清水さん、帰らないの? 誰か待ってるとか?」

 小さく首を振る。少し家が遠い私には、元々下校を一緒にするような友人はいないけれど、それを彼に知ってほしいとは思わなかった。知ってほしいのは、ただ一つだけだった。

「……手紙、私、です」

 緊張らしい緊張はないと思っていたけれどそれは自分についた嘘で、声は微かに震え、視線は彼と合わせられない。けれどそれを口にしないことには始まらないことなんてわかっていた。わざわざ残ってもらっているのだ。せっかくの決心を悪戯と思われるわけにはいかない。

「え、そうなの?」
「うん。……好きだって、知ってほしくて」
「え」

 それこそ昼間の礼香と同じ席で、同じように目を丸くして、彼が私の顔を凝視する。あまりの恥ずかしさに本で口元を隠しながら、「残ってくれてありがとう」と小さな声で言った。驚いたままの彼は数回瞬きをして、惚けたように「こちらこそ」と言い、徐々に表情を解してはにかんだ。

「なんか恥ずかしい、ありがとう。……でも」
「付き合ってほしい、とかじゃないから、平気。返事とかはいいの。……高校生活が終わる前に、知ってほしかっただけで」

 そう、決死の思いで言いながら、最後とばかりに彼の目を真っ直ぐに見た。心臓がバクバクしている。ああ、言ってしまったんだと頭が遅れながら理解する。彼はまた驚いた顔をしたけれど「そっか」と優しい笑顔をした。

「でも、ありがとうな」

 花が咲くような笑顔だと、私は思った。男の子にそういう表現はどうなのだろう。けれど本当に、そう思ったのだ。夏の青い空をバックに鮮やかな色を見せる、そういう人だ。まともに話したことなんてなかったけれど、私の見ていた彼は私の理想ではなく本当なのだと、それを最後に知れたことだけが全てのように思えた。
 夏の花のような彼は夏の花のような少女が好きで、きっと彼等はうまくいって、私は彼の歩む方向にはいない。それでも道が二つに分かれてしまう前に、まだ同じ廊下を歩けるうちに、素直な気持ちを伝えることが私にできる最大のことだと、それはきっと正しいことなのだと、私は。

「三年間同じクラスだったなー」
「うん。ずっと席も近くて、嬉しかった」
「俺もさあ、清水が毎日挨拶してくれて嬉しかったよ」
「私はそれに返事してもらえて嬉しかったよ」

 そう小さく笑えるほどに、その瞬間満たされていて。卒業式のような会話をしながら、彼が私を「素直な性格なんだな」と笑う横顔を近くで見られたことが、それこそ卒業のお祝いのように思えた。

「もっと話しておけばよかった」

 そう彼が言うから私は曖昧に笑い、「卒業までに話してくれたら嬉しいよ」と半分冗談のつもりで言って、それに彼が「話しかけるよ!」と本気の目で言うから、卒業までの私の日々が一気にキラキラ輝いて見えて。そうして校門の前で別れ一人、僅かに暗くなった道を歩きながら思う。きっと、この恋は素敵な思い出になって残るのだと。「おはよう」だけで、「バイバイ」だけでいいと思った私に彼は最後に「ありがとう」をくれて、その上これから会話をくれるというのだ。
 ガタンゴトンと電車に揺られている間ふわふわと浮足立って夢の中に居るようで、けれどそれが夢でないことがわかるのは聞いた覚えのない言葉を彼が彼の声で言ってくれたのが耳にまだ残っているからで、車窓から見える風景はいつもより輝いていた。家の近所の町並も、アスファルトの道路も、掠れた道路標示も、何もかも。自宅の扉を開けて、自分の部屋に入って、全てやりきったような気持ちで座り込む。

 きっと、この恋は素敵な思い出になって残る。

 今度は確信のように思った。だから一度だけ、一度だけ。そう思いながら頬を伝う熱を止めない。明日になればこうして目を赤くしたことも自分の中で嘘にして、またいつものように挨拶をするのだ。だから今だけは特別なのだ。
 高校の三年間、この部屋で気持ちを自覚し、この部屋で彼を想い、そしてこの部屋でこの気持ちを終える。幸せな恋だった。こんなにも幸せな片思いがあるのかと思うくらい、伝えなかったら切なくもならないような、幸せなだけの恋だった。けれど、伝えたことを後悔はしない。これからもっと幸せになるであろう卒業までの日々が待っている。言葉を交わそう、挨拶だけでなく。それが彼が私にくれる最後のものだ。
 私はただ一人、暗い部屋の中で静かに、穏やかに、涙を流した。幸せだった過去と、幸せな未来を想って。
(2015/02/14)