シガーキス
 どうしても、好きになれないにおいがある。煙たくて、甘ったるくて、大嫌いなにおいだ。つけすぎた香水より、飲みすぎたアルコールより、ニンニクを食べた二日目のにおいより。



「くっさ」
「酷いな」

 私は彼にそう言って顔をしかめた。彼は苦笑して私の頭を軽く撫でたけれど、私はそれを首を振って煩わしい思いのまま払いのける。車の中には彼の吸う煙草のにおいが充満している。私の眉間から皺が消えないのはそのせいだ。

「用は何」
「何って、食事でも一緒にどうかと思って」
「食事? 店は決まってるの?」
「大丈夫、三十分もかからないよ」

 車が走り出す。冬の寒い日だがそんなことはお構いなしに助手席の窓を開けた。彼はそれに文句を言わない。恋人だった時よりも勝手に振る舞う私を、まるで別人を見るように横目でチラリと見て、口元に淡く笑みをのせた。
 私はできる限り顔を窓に近づけて、煙草のにおいをかわす。車内の音はラジオが流す音楽のみだった。ラジオDJがコメントと共に音楽を届ける。

(……あ)

 なんてタイミングでこんな歌を流すのだろう。歌に唇が動きそうになるのをこらえ、意地でも視線を外に向けた。そんな私の横で、彼が楽しそうに口ずさんでいる歌を、私は知っている。苦い想いと共に、忘れられない気持ちが込み上げてくる。目頭が熱くなるのをぎゅっと唇を結んで堪える私に、彼はきっと気付かないだろう。そういう人だ。

(どうして……)

 どうして、私はこんなにも情けないのだろう。未練なんてないと、振り切ったはずだった。簡単な決意じゃない。揺るがないはずだ。そう思って、こんな男のために二度と後悔なんてしないと決めて、この手を振り払ったはずだった。その決心が、こうして会うだけで崩れてしまいそうな気がしている。

(来なきゃよかった)

 最初から取り合っていなければ、こんな臭くて不快なにおいを嗅ぐこともなかったし、そんな車に三十分も揺られる必要もなかったし、こんな惨めな気持ちになったりなんてしなかった。そう、全部と無縁でいられたのに、私は。
 車が止まる。その店のチョイスのデリカシーのなさと言ったらない。一年目の記念日に、初めて来た店。幸せだった関係が、徐々に壊れていくのを知っている店だ。

「ついたよ」
「……やっぱり私、」

 助手席から立ち、もう帰ってしまおうと、耐えられないと、彼から視線を逸らす。ドアを開いて出ようとした私を、先に車から降りていた彼が窓越しに私に話しかけるのが見えた。

『かえらないで』

 どうして、今日私を呼んだの。私たち、もう駄目になったんでしょう。
 辛い思い出の方が鮮明だ。私には、まだこの恋は苦い恋なのだ。笑って話すことも出来ず、仕事に逃げて、逃げて、打ち込んで、やっと忘れている。忘れられない夜は一人酒に溺れて、泣けもしない乾いた冷たい女だと自嘲して、泥のように眠るのだ。

 優しく静かに開けられたドア。居座ることも出来ず足を地面につける。

「ありがとう」
「お礼なんて言われる筋合いないわ」

 私は彼の目を見ない。見てしまってはいけない気がした。

 カランコロンと気持ちのいいベルの音。落ち着いた雰囲気の店内は、変わらず静かな音楽を流している。いい香りがする。心が少し落ち着くような、そんな香りが。

「いらっしゃいませ」

 久しぶりに見る店員が私たちを迎えた。その目は私たちを覚えているような、いないような、そんな微妙な空気だ。だって、長くここには訪れていない。

 メニューを開く。一部変化している季節のメニューと、見慣れたお酒の名前。二人でメニューを挟んで静かに言葉を交わすのも、久しぶりだった。私は、この瞬間がひそひそ話みたいで少し、好きだった。少女のように微笑んでいた私の頬は、今となっては無愛想に口角を下げている。
 グラスワインの白と、季節のディナー一品を頼んでメニューを店員に返す。落ち着かない沈黙が訪れる。

「グラスでよかった?」
「そんなに飲むつもりはないわ」
「そのスーツ、見たことない」
「別れた後買ったから当然よ」
「似合ってるよ」
「そう? 店員さんの見立てがよかったのね」

 あなたと会わない間に変わったことがたくさんあるのよ。そう、話し出すこともできない気持ちだ。まだ思い出にできていない恋というのは、総じてそういうものだ。
 このスーツも、顎のラインで切りそろえた髪も、連絡先に増えた男の人の名前も、この人の名前が下の方に流れたトーク画面も、周囲からもらう褒め言葉も、全て。全て彼が知らない私だ。

 けれど、今は違う。

 会った一瞬で引き戻される気持ちに嘘はつけなかった。だって自分の気持ちの変化は自分が一番わかっている。私はこの気持ちをよく知っている。別れる間際、悲しくて寂しくて愛しくてどうしようもなかったあの頃の気持ちだ。
 気付かれないようにギュッと唇を噛む。ちょうどそのタイミングで店員がワインを持ってきてくれた。

「乾杯」
「乾杯」

 何に、というわけではないけれど、ワインとウーロン茶で乾杯をする。グラスに口をつける。彼と付き合った当時苦手だったワインを、彼と付き合っている最中に好きになったことを何となしに思い出し、私の苦手な苦みを仄かに感じた。ああ、だめだ。戻っていく。戻っていく。
 気丈に振る舞う私も、気持ちを切り替えられる私も、仕事に打ち込む私も、思い切りがいい私も、全て私だ。私にだって強い所はたくさんあって、普通に生きていたらそちらの方が多い。友人達に相談を持ち掛けられるのも、部下から頼りにされるのも、私の強さを知る彼らの信頼によるものだ。彼だけなのだ。私を弱い女にするのは。

「最近どうしてた?」
「どうしてたって、仕事よ」
「そうか。楽しい?」
「楽しいわ。できることも増えたし、結果も出せてるし」

 「よかった」。そんな笑顔で言うのね、あの頃は私に興味なんてなさそうだったのに。

「あんたは? って、聞いてくれないの?」
「聞いてほしいわけ?」
「少し」
「じゃあ、聞かないわ」
「ええ、意地悪だな」
「知らなかったでしょ?」

 グラスをテーブルに置く。運ばれてきた食事を見て店員に礼を言いながら、彼の手元を見る。私がいつだかにプレゼントした腕時計をしてくる周到さも、私が似合っていると言ったネクタイをしてくるずる賢さも、鼻につく。癇に障る。浅く、深呼吸をする。

「もう一度会うことがあったら、教えてないところをいっぱい見せてやろうと思ってたの」

 真っ直ぐに目を見て。
 目を見開いている彼の顔の面白いこと。自然、笑みが唇に乗る。ほくそ笑んでいる。ああ、楽だわ。無理せずに自分らしく居るというのは、こんなにも。

「私は、こっちの私の方が好きよ。イイコで居るなんて性に合わないもの」

 彼が何か言いだす前に「いただきます」と食事に手を付けた。美味しいわ。味がする。彼の動きに気を遣いながら、先読みしながら食事をしていた頃の何倍も美味しい。食事をぺろりと平らげて、残ったワインを飲み干す頃には私は自分に戻っていた。冷静に、平静に、自分がそうあるのがわかる。

「行こうか」

 その声に立ち上がる。財布を取り出すと、彼は苦笑して首を振った。私はしぶしぶ引き下がって、先に店を出る。いくらくらいだったかな、と思考を巡らせて、三千円だけ用意して、財布をしまう。

「お待たせ」

 出てきた彼に用意していたお札をそのまま突き出して握らせる。

「可愛くないな」
「可愛くする必要ないでしょ?」

 背中を向けて車へ向かう。またあの臭い車に乗るのかと思うとうんざりしたが、私はもう眉間の皺を隠さなくていい。

「早く開けて」

 助手席側の扉の前に立ち、彼に言う。彼は苦笑して私の方へ歩いてくる。私の方へ……? 「あんた、運転席でしょ」と私が遠慮なく言うと、彼は「うん」と言うのにこちらにそのまま近づいてくる。

「ちょっと」
「なあ」

 ぐ、と車と彼に挟まれる。ああ、しまった。力では勝てない。何なの、と睨みつける私を見て、彼はずっと、ずっとあの顔だ。切ないような、苦笑を浮かべている。なんて顔をするのだ。別れた女の前で。

「俺も、教えてないところいっぱい見せたいんだけど、付き合ってくれるよな」

 ああ、勝手な男だわ。散々勝手しておいて、私が勝手した分またするのね。

 ふわり、と煙草のにおいがする。この男の傍にいると、いつもこのにおいがする。
 わかっているのだ。送られてきたメッセージに応じた時点で、自分の気持ちなんて。未練と後悔と、どうしようもない愛しさと。結局私が負けているのだ。どんなに強くなったって、どんなに私らしくなったって、私の心根が言っている。この男が好きだと、言っている。

「いいわよ」

 低い、挑戦的な声が出た。

「負けず嫌いな私に、負けても幸せだったと思わせられる自信があるなら」

 睨みつける私にやはり驚いた顔をして、彼はしばらく動かなかった。「ああ、駄目か」。そう諦めの気持ちが湧きあがり始めた頃、私の口が否定を表すよりも少し前に、静かな闇の中、最初に動いたのは彼の手で。それが私の頬に触れたのを皮切りに、目を閉じる。

「……くさい」
「煙草、やめようかな」
「そうして」

 それは確かに誓いのキスだった。
(2017/10/07)