001素敵で寂しい夜に
 あの頃刺激的だと感じた日常は、今はもう少しも刺激的じゃない。

 仕事を終えていつもの場所へ。独り。街の喧騒をくぐりぬけて、ネオンの灯りを遠ざける。ふ、と吐いた息が白く濁って宙に浮くのを見ながら、私はマフラーに顔を埋めた。ああ、寒い。奮発して買ったコートは冷たい風を通さないでいてくれるけれど、私を温めてくれるわけじゃない。黒いそれはそれなりの重さで、闇の中に私を溶け込ませる。そんなとき、私は消えてしまいそうな気分に襲われる。そしてそれも、悪くはないと思う。
 街の暗い方へ暗い方へ足を運べば、やがて見慣れた灯りが見えてくる。暖かそうなオレンジの光に照らされた一つの扉を開ければ、「おかえり」と知った顔が声をかけてきた。低く響く優しい声。誰もを落ち着かせるようなそれに、私は甘えている。
 まばらに客のいる店内は、微かな話声と酒の匂いに満ちていた。一番奥のカウンター席に少ない荷物を置き、「ただいま」と店主に改めて挨拶をする。彼はその目を細めて、静かに笑みを深めた。脱いだコートを近くのハンガーにかけ、腰を下ろす。

「今日は?」
「一杯飲んですぐ寝る」

 「少し疲れたわ」と言えば彼は何かを察したかのように淡く微笑んで、私に濁った白色のカクテルを差し出した。コーヒーの深い香りに混ざってアルコールの匂いがする。私はそれに「ありがとう」と一言言ってから、ゆっくりと口をつけた。甘い柔らかな味が広がるのに口元を僅かに緩めれば、目の前の彼が満足そうに笑う。
 目にかかるくらいの黒い艶やかな髪と漆黒の瞳。今は穏やかで優しいそれが冷たくなることを私は知っている。
 ジーノと名乗る彼は、私の最初の客だった。ターゲットは自分の父親。私は彼の父親のことはよく知らないし、彼も多くは話さなかった。ただ、ろくでもない奴だと語られたその男を指して、彼は私にこう言った。「あいつが憎くて憎くてたまらないんだ」と。私はそれに頷いて、この引き金を引いたのだ。
 私の仕事は金で人を殺すこと。それ以上でも以下でもない、単純明快だ。けれどそんな、今の私にとって作業のようにこなせる仕事にも始まりはあって、その時はどきどきびくびくして、恐ろしくて怖くてたまらなかった。震える手で人に銃口を向けた。私にもそんな頃があったのだ。そしてそんな頃の私を彼は知っている。
 もう七年続く共犯関係に終わりは見えない。どちらかが死ぬか捕まるかしない限り、きっとそれは来ないだろう。私達はお互いに、淡く微笑み合いながら、誰にも言えない秘密を共有している。そしてそこには、他の客との間にはない情がある。その情が友情なのか同情なのかはわからないけれど、きっとどちらもそうなのだろう。どちらもが友として相手を好きで、どちらもが相手を憐れんでいる。その憐みが時に心地いいのだ。

「今日も美味しかった。ありがとう」
「それはよかった」

 飲み終わったグラスをカウンターにおろす。かけておいたコートと荷物を手に取って、席を立った。

「おやすみ、ジーノ」
「おやすみ、ロゼ」

 店を出る。長く油をさしていない扉の金具はギイっと重たい音を立てながら閉まる。そのまま店の裏手へ回り、外階段から店の二階へ。そこの一室が、今の私の住処だった。それがジーノとの仕事の契約だ。十八歳だった私は着の身着のまま家を飛び出して、衣食住すらままならなかった。見つかることすら許されないなか、どうすれば生きていけるのか。教えた男はもうしばらく見ていないが、彼には感謝している。

『生きようと思うなら喰われるな、喰いつくせ』

 その言葉は今も、私の心臓に根を張って離れない。

「――生きるために」

 そう、私が生きるために、誰かを殺す。そういう生き方を、私は正当化しなければならない。殺す相手が私より遥かに善人でも、遥かに悪人でも、私は私のためにその人を殺すのだ。なぜ生きていたいか、それすらわからないままに。
 手に握る冷たい銃も、死ぬ直前の恐怖に満ちた瞳も、情けなく命乞いする声も、はたまた目を見開いて息を飲む様も、もう何も珍しいことじゃない。その後ろにある悲しみを私は考えてはいけない。生きるために足を止めてはいけないのだ。止まりそうになったら、歯を食いしばって甘えるなと自分を叱責する。止めたところで殺した人は帰ってこないのなら、私はずっと、生きていくしかないのだから。
 窓を開けると白いレースのカーテンがふんわりと揺れる。夜の空気の中、時々考えてしまうのはもうやめられない癖で、私は窓辺に肘をついてぼんやりと、月の僅かな明かりを眺めながら思う。こうまでして自分は生きていなければならなかったのか。生きていたい、よりも、死にたくないという、そんなネガティブな思いで生きてきたけれど、私は特に誰かに求められることもないまま、求めることもないまま、ただそこに在るのだ。この七年、生きている素晴らしさを噛みしめたことがあっただろうか。最初一年はあった恐ろしさも消え失せた今、私の心が得るのは緊張と、それが緩む瞬間の安心だけだ。それ以外に心動かされるものがない中、ただ生きているのだ。
 けれど、人を殺してしまった道を戻れないのと同じように、生きてしまった道は戻れない。だから、素晴らしいと思うしかないのだ、今の現状を。
 ぼんやりと心に灯る、空虚な何かが私を支配する。それが何なのか、私は知っている。

(……さみしい)

 心地いい夜の風。心地いいけれど、一日で一番不自由な時間だ。
(2017/04/06)